Reflections

時のかけらたち

何度行っても感動する一村展 ・・・Isson:an impressive exhibition, no matter how many times you go

2024-11-09 23:29:09 | art

11月7日

一つ一つの絵からまたパッションをいただきました。そこからあふれる芸術への想い。美の追求。
生涯かけてそれを追求できたことが幸せなことでした。それも時に他の労働もしながら人々の支援を得ながら・・
何回見ても絵から受け取るものも多く、また初めて見るような感動もありました。新しさも感じ、若い人たちも
ひきつけているようです。
毎回ほんものの絵から伝わってくるパワーのすごさを感じます。

これだけのことをなしうるってすごい。もともと神から与えられていた才能があっても、その努力の積み重ねが。

 

田中一村展へで10月24日に前期の展覧会に行ったときのことを書きましたが、今回は2回目。後期の展覧会です。
入れ替えがなければ2回も行かなかったけれど、何度見ても新鮮な驚きがありました。

2度目だと今まで気が付かなかったことにも気が付くし、前回見てそのあのペパーミントグリーンが効いているねと
思ったところを再確認したりしました。絵の変遷もさらうことができました。

最初に一村の名前のことが書かれていたことに、今回初めて気が付き、その漢詩の一部
「柳暗花明又一村  柳は暗く花は明らかに又一村」が心の中に広がって行きました。
なんてすてきなネーミングでしょう。一村の絵が光のように照らしてくれるような感じです。

陸游の七言律詩「遊山西村」(山西さんせいむらあそぶ)

山西の村に遊ぶ

  莫笑農家臘酒渾  笑ふ莫かれ 農家臘酒の渾(にご)れるを
  豊年留客足雞豚  豊年にして客を留むるに雞豚足る
  山重水複疑無路  山重なり水複して 路無かきと疑ひ
  柳暗花明又一村  柳は暗く花は明らかに又一村
  簫鼓追随春社近  簫鼓追随して春社近く
  衣冠簡朴古風存  衣冠簡朴にして古風存す
  従今若許閑乗月  今より若し閑に月に乗ずるを許さば
  拄杖無時夜叩門  杖を拄き時と無く夜門を叩かん

この詩は、第4句「柳暗花明又一村」がよく知られているとのこと。

  • 柳暗花明
    田舎の美しい春景色の形容 柳がほの暗く繁っている中に桃の花が灯をともしたように明るく咲いている風情

意味)
農家の師走じこみの酒は渾っていても笑わないで下さい。
豊年ですからお客をもてなすには、鶏も豚もたくさんありますと言って、招かれた。
山が幾重にも重なりあい、川がまがりくねって、路は行き止りかと思っていると、
柳がほの暗くしげる中に、桃の花がぱっと明るく咲いているところに、また一つの村が目の前にあらわれた。
春の祭りが近づいて来たのであろうか、笛や太鼓の音が、追っかけるように聞こえてくる。
着ている衣服は簡素で古風な昔ながらの風俗をのこしている。
 (まことにのびのびとしたこの山村の趣きは、私にはとっても楽しく、いい雰囲気なので)
これからももし月の美しい夜に訪れてよいといって頂けるならばいつとはなく杖をついて、
農家の門を叩いて訪れたいものである。

                        関西吟詩文化協会 中国の漢詩より

 

初めて見た時に、まだ初期の十代の頃の南画に漢詩が書いてあり、その書体も時代によって変わって行ったりして
いて面白いとも思ったけれど、まったく意味が分からない。中学生時代の一村は読書をよくして、成績もトップで
絵だけでなく秀でていたようです。特に漢詩が好きだったという。 「田中一村と漢詩」

いつもカタログは印刷で色が本物と違ってしまうので買わないのですが、今回帰ってから漢詩についてもっと
知りたくなり、解説を見たくなり、ネットで注文しました。それに今回ほど一村の作品が集まったことはないのでは
と思うくらい、個人蔵も含め、埋もれた絵画も公になっています。やっぱり会場で図録は買うべきでしたね。


 

「紬工場で、五年働きました。紬絹染色工は極めて低賃金です。工場一の働き者と云われる程働いて六十万円貯金しました。
そして、去年、今年、来年と三年間に90%を注ぎこんで私のゑかきの一生の最期の繪を描きつつある次第です。何の念い残す
ところもないまでに描くつもりです。画壇の趨勢も見て下さる人々の鑑識の程度なども一切顧慮せず只自分の良心の納得行く
まで描いています。一枚に二ヶ月位かゝり、三ヶ年で二十枚はとても出来ません。私の繪の最終決定版の繪がヒューマニティ
であろうが、悪魔的であろうが、畫の正道であるとも邪道であるとも何と批評されても私は満足なのです。それは見せる為に
描いたのではなく私の良心を納得させる為にやったのですから。千葉時代を思い出します。常に飢に驅り立てられて心にもない
繪をパンのために描き稀に良心的に描いたものは却って批難された。私の今度の繪を最も見せたい第一の人は、私の為にその
生涯を私に捧げてくれた私の姉、それから五十五年の繪の友であった川村様。それも又詮方なし。個展は岡田先生と尊下と
柳沢様と外数人の千葉の友に見て頂ければ十分なのでございます。私の千葉に別れの挨拶なのでございますから。そして、
その繪は全部、又奄美に持ち帰るつもりでもあるのです。私は、この南の島で職工として朽ちることで私は満足なのです。
私は紬絹染色工として生活します。もし七十の齢を保って健康であったら、その時は又繪をかきませうと思います。」

 

自分を貫いて描きたい絵を求めた一村の生き方が、伝わってくる絵です。どの時代もそれぞれトーンが違っていていいのですが、
一村は紀州や九州に行って描き始めた後半に何か、ほんとうに自由に何にもとらわれないで描けるようになった感じがしました。
それが最後にたどり着いた地、奄美で彼の世界が花開いたと思います。自然の中でほぼ自給自足のような暮らしをしてもともと天才で
親思いで、自分の心に従って生きることしかできなかった彼の感性がますます研ぎ澄まされ、広がって行ったような感じです。
奄美の近隣の人たちにも支えられて暮らしていた晩年に心安らぎました。

 

永遠を見た一村の集大成「アダンの海辺」

 

前回の展覧会を見たあとにドキュメンタリーや日曜美術館など見て、絵から受けた感動が大きかったので、その生き方も知りたく
なりました。展覧会には一部書簡も置いてありました。



そういえばどこかの番組であのフクロウは自画像ではないかとのコメントもありました。私には岩の上で高らかに鳴いている
赤ひげやアカショウビンもそんな風に見えます。

今上野でこんなにすごい展覧会が開かれて、感慨深いものがありますね。
一村が応募した公募展が開かれていたのが、今回の大回顧展会場である東京都美術館。東京美術学校に入学したのと同じ年に
開館した都美術館に、生前彼の作品がかざられることはなく、家の事情で東京美術学校を退学せざるを得なかった地、上野。
「いつか東京で決着をつけたい」と思い続けた一村の夢が大回顧展となってかないました。

 


そして田中一村の絵は奄美で見るという友人と一緒に来年、奄美大島へ行くことを計画中。
一村の感じた空気の中へ。そして大島紬や自然に触れることが出来たらと思います。
以前から、大島紬の里に行ってみたいと思っていた場所です。
せっかく奄美大島まで行くのなら、帰りに屋久島に寄りたいとも期待が広がります。
問題は空路・海路・陸路も含めた交通手段。ちょっと今までになく大変な旅になりそうです。
できるうちにできることはするが今の私のスタンスです。

初期の鋭い線が最後の南国の植物にも生かされていました。

 

参考)

田中一村と漢詩

田中一村終焉の地、奄美大島。自分の良心を納得させるために描く

田中一村傑作選  

関西吟詩文化協会 遊山西村 中国の漢詩

プレビュー  田中一村 奄美の光 魂の絵画

 

Nov. 7 2024  Ueno

コメント
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