Reflections

時のかけらたち

京都・奈良・広島へ -11 (嵯峨野から松尾大社へ) ・・・ trip to Kyoto, Nara & Hiroshima -11

2024-06-15 23:03:09 | wonderland

4月17日

祐斎亭で長く滞在して楽しんだ後、昼食を取りに娘が前回行ったというカフェに行きました。
午後は娘が京都に住むためのリサーチで松尾大社あたりを歩く計画です。




お風呂屋さんをリノベした面白いカフェです。



        



私は確か新キャベツとチキンのクリームパスタ、娘はカレー。
ここでコーヒーについていたクッキーが塩味がさっぱりしておいしかったので、この後訪ねる広島の
義理の姉のお土産にしました。

ここから松尾大社に行くのにカフェの人に聞いてバスを使うことにしました。





五世紀の頃、秦の始皇帝の子孫と称する(近年の歴史研究では朝鮮新羅の豪族とされている)秦(はた)氏の大集団が、
朝廷の招きによってこの地方に来住すると、その首長は松尾山の神を一族の総氏神として仰ぎつつ、新しい文化をもって
この地方の開拓に従事したと伝えられております。

京都屈指の古社のひとつ、松尾大社は、秦氏ゆかりの神社といわれ、大山咋神(おおやまくいのかみ)と市杵島姫命
(いちきしましめのみこと)が祀られています。古くからお酒の神様として名高く、全国の酒造業者から尊崇されています。

葛野は古くから秦氏が勢力を伸ばした地域で、最初に桂川を堰き止めて田畑に水を引いたのも秦氏といわれています。
その大堰の造営は、5世紀末とも6世紀前半ともいわれ、葛野大堰(かどのおおい)として早くから知られていました。
おかげで桂川流域は肥沃な土地となり、生産性が一気に上がって秦氏は富み栄えたといわれています。

秦氏は古代に日本に移住した氏族で、土木工事や金工、養蚕など、大陸の高度な技術をわが国にもたらしたといわれています。
古代の最もよく知られている人物は、太秦の広隆寺を建てた秦河勝(はたのかわかつ)で、彼は聖徳太子のパトロン(後援者)
であったと伝えられています。官僚や高僧や世阿弥のような芸能人も秦氏から出ました。この松尾の地にも秦氏のものと推測
される後期古墳が見つかっています。とはいえ、葛野がそれまでまったく未開の地であったわけではなく、秦氏が進出してくる
ずっと以前から豪族たちが暮らしていました。

松尾大社の背後にそびえる松尾山山頂近くの大杉谷には、秦氏が居住する以前の太古からこの地に住む人々によって崇められて
きた磐座(いわくら)があります。秦氏も葛野に移ってからは、この磐座に降臨する神を崇めてきたといわれているのです。

                                                                                                       京都の時空に舞った風   旧跡とその周辺の歴史を中心に  より抜粋

松尾大社の歴史を見ると奈良時代、平安、そして鎌倉、室町、安土桃山、江戸と大きな影響力を持ち続けてきたことが
わかります。


山吹の花が咲き、松尾大社の美しい季節になっていました。
















 酒造については秦一族の特技とされ、秦氏に「酒」のという字の付いた人が多かったことからも酒造との関わり合いが
推察できます。 室町時代末期以降、当松尾大社が「日本第一酒造神」と仰がれ給う由来はここにあります。




すてきにバランスの取れた建物です。




霊亀(れいき)の滝




 





ここは松尾大社の駅前。アパートやらいろいろあり、普通の住宅地であり、京都らしい場所では
ありません。


桂川もわたってみて、ネットで見ていた物件を見に行きました。
あっという間に借り手が見つかっていたそうですが・・



帰りは駅に戻らず、バスで帰ってきました。


ホテルの曲がり角の嶋臺(しまだい)は酒店だったと思いますが、ギャラリーになっていて京都国際写真祭の会場の一つ
になっていました。

ホテルに一度戻ってから夕食を市役所の裏の方に食べに行きましたが、以前ハンバーグを食べたことのあるお店でしたが
ステーキの肉が固すぎて最悪でした。

April 17  2024  Sagano &  Matsuo Taisha

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