今日はみどりとお姉ちゃんと棟梁の相席教室。ただその前に色々とほうれんそう・・・報告、連絡、相談的な話から。まずみどりが見つけた話の提出が済んだ事・・・昨日受理されたとメールがやって来た。それと、先日棟梁から話のあった多目的ホールを使わせて貰える話。
それをかぐやに相談すると、使い方をもう少し幅広げませんか?との事なんで、確かにそれも良いかも・・・ってな話。本来普通は生徒さんってだけなら、こんな話は出て来ないものだが、作家katsuとして何とか成功して欲しいと願って下さる人は、生徒さんってよりもご贔屓さん寄り。
だから、何かをしてあげられないものか?・・・となったりする事が、作品購入になったり、イベントに参加だったり、手伝いだったり・・・そんな中に、出張のワークショップの開催側になり、場所の提供の手配などをやってくれたりもするのね。
これが弟子となると、仕事がして見たい・・・って事になると、かぐややみどりのように積極的に参加したり、そう言う機会を探してくれたりもする。いずれにせよ、そう言う事になると、一般的なお教室とは全く違うものになるのね。
しかも、そうなると単なる技術論では済まなくなる。当然いつも言っている心の問題は大きくなる。そもそも単純に考えれば、何の世界も誰であっても
一緒で、練習なら伸び伸びやって結果は出たりする。子供のゲームも一緒で結果が悪ければリセットってね。
それを学芸会でも受験でも、大会でも、ひとたび失敗は許されない・・・って緊張感の中であれば、日常の力を発揮出来ないのは何故?それは緊張感に負ける心そのものなのね。つまり本当に上手くなるって言うのは、いつも通りに何処でも誰とでも一緒にいられる心も必要になる。
所がこれを思い上がると簡単に平気と言えるのだが、その思い上がりすら気が付かない・・・つまり自覚の無い場合がある。この場合は、崩れている本人が崩れている事にも気が付けない・・・・これが一番の悪だったりする。それは本人だけで無く他人にも迷惑を掛ける事になるから。
所がそれは紙一重なのね・・・例えば競技なら、勝者と敗者になるし、受験でも合格と不合格に分かれる。何故そうなるのか?それは相手がいるから。
つまり1人で永遠に他人と交わらなければそんな事にはならないのに、独りではいられなくなるから・・・。
ただ好きって言うだけで何でも続けたいのなら、群れる必要は無いし、教わった事を黙々と一人自宅でやれば良いし、自分の趣味、楽しむだけなら、全く誰にも見せなければ、上手い下手も問われないし、出来ただけで楽しめる。それが人って言うのは欲望の塊なのね。
続ければ上手くなりたい気持ちが芽生えるが、じゃ世の中ってのは上手くなる基準って何で計るか?となると、単純に2通りあって、先生の評価か自分の眼って感じになると思うのね。これが点数を付けられるものや、成績がはっきりするものであれば誰の眼でもはっきりするが、素敵な物みたいな美の点数は
人の感覚的な曖昧なものになったりする。つまり評価が一定にはならない。ここが美の難しさでもあったりする。それを踏まえた2通りの話に戻ると、まず先生の評価・・・こんな場合、そうね、誰もが知る大先生に貴方上手ね・・・って評価を受けたとしよう。完全に自信になるでしょ?
何でかな?それはハクだね。要するに大先生に褒められたから。ではこの他人事をリアリティを持って緊張感のある話にすると、例えば女の人なら、貴方がフィギュアの宇野君の母親だったとする。その子が幼い頃に、羽生君に頭を撫でられて、上手いね・・・って言われたとする。
そしたら、僕も羽生君みたいになる・・・って言ったとする。そしたら金メダルの人のようになるのだから、当然今までの練習とは変わる。こんな事があったんだろうし、実際そうだったんだろうね・・・は聞かなくても判るでしょ?じゃ、こんな言わなくて判るような事は勉強にならないから、
もしかしたら?・・・って部分ね・・・ではそのリンクにはいっぱいの生徒がいたのに、宇野君だけそう言われたとしたら?多分宇野君自信は何も変わらなくても、周りの人達の反応は様々だったと思うのね。例えば単なる友達なら、良いなぁ・・・だけだが、ライバルだったら?
チェッって気持ちだってあるだろう。何せ小学生だから。そしたら我が子可愛さの母なら、ウチの子は?と思ったりしなかったろうか?逆に単なる趣味程度であったのなら、とてもとてもウチの子なんて・・・と握手と写真で十分だったりもしたかも知れない。
こんな環境の中、続けていたとしたら今の宇野君とライバルとして競い合っているだろうし、もうとっくに辞めているかも知れないし・・・ただね、もっとえぐいのは、褒めて追い掛けられた羽生君・・・凄いのは勝ってまた同じ事をする・・・大きな壁である事。
逆も真なりで、その宇野君は冷静に全ての演技を完璧なら僕が金かぁ・・・って。きちんと追い掛ける所かライバルとして銀に輝いている。人が渦巻く環境を勝ち残ったものが味わえる例だし、眼には見えない敗者の人達がいっぱいいたはずである。人の不幸の上に幸せは成り立つ例。
ではそれが嫌な場合、個人で永遠に楽しむ・・・って出来ればそれに越した事は無いのだけれど、人の欲望ってのは果てしないもので。上手くなりたい・・・って思ってしまうものでね・・・では一体何を持って上手いとするか?になった時に、何でもそうだが何の何処を評価とするか?になる。
まっ簡単な話で言うのなら、昔なら絵が下手だと絵は描けないし、楽器が弾けないと・・・みたいに諦めれば良いが、今はパソコンなんてものがあったりする。つまり実際に描いたものは直せないが、パソコンでは曲がった線を補修してくれたりするから、上手く描けたりするし、色も選ぶだけで、
塗りムラも起こらない。利点はね。欠点は誰でも同じになる。その技術を習得すればね。楽器も同じで、生演奏をするのでは無く打ち込みとして、作り込んで置けば、当日の失敗はほぼ無いし、弾かなくても弾いた事と同じ音で作れたりする。ただアドリブは利かない。
つまり生の場合、その人の今日の気分を出せたりするが、パソコンを通しての場合、技術は全てパソコンの技術になる。要するに絵を描く行為の技術では無く、パソコンの知識みたいな話。こうして言うと、否定的に聞こえるがそうでは無く、結局何をどうやったとしてもオリジナルな訳ね。
だって結局、自分でオリジナルを作らないと人の真似なんだから。あれに似てる、これに似てると先人の有名なものと比較されて、似ていないと下手と言われてコピーとも言われず、本物と区別が付かなければ贋作と称される。ただ名は明かせないだろうがね。
こうした感じが人の眼の評価の話なら、これとは対極にある自分の眼って事になるが、何を持ってしてその眼を養うか?となると、人のを見たくなるんだろうね・・・そこで憧れて努力したのが宇野君なら、憧れを追い越そうとするのも宇野君。ではそこまで行かなくても・・・って人は、
一体どの程度が良いのだろうか?・・・ここね。そろばんなら級とかで判断する。たださぁ、1+1=2はさぁ、否定的になったんでしょ?この国って。
俺はそう習ったんだけれどね・・・2にするにはどんな方法がある?って自分で問題を考えさせる・・・つまり人の問題を解くのでは無くて、自分で
考えるって方向になっているから、十人十色って事にしているんでしょ?今って。でもね、それを2=1+1って言うのなら、結局俺の頃と何ら変わらないのね。当たり前だから。発想力ってのはそんなに単純じゃないからね。そんな事を踏まえた時に、パソコンであっても、実際であっても、発想力の
問題であって、しかし発想だけでは簡単に真似をされるし、だから簡単に真似出来ない事を考えようとする訳で。それを技術だけに走ると、きちんと切れた、張れた、楽譜通り間違えなく演奏が出来た、先生のお手本のような字になった、綺麗に塗れた・・・それをただ繊細にしただけになる。
いつしか飽きるわっ。何故ならプロなら飽きてもやり続けなければならないが、アマチュアならそこまでこだわらずに出来る。しかし、そこまで出来るようになったらオリジナルに手を出さなければ、金魚の飼育って言っているみたいな話になる。
例えば金魚が好き・・・だから飼う。こんな場合、必ず失敗し死んでしまう。それは知識の無さ。ここで脱落すれば飼わなきゃ良いだけ。所が何匹死んでも買い続ければ必ず自分の実力以上の元気な金魚に出会う。そうすればそう簡単に死なない。ほら楽しめた。死んだ者が浮かばれた。
所がいつかまた死ぬ。どうする?それが生きていたのはそいつの生命力であって、必ずまた・・・とは限らないし、そいつの代わりはいないのね。そこで愛好家は血を残す・・・つまり子引きをする・・・繁殖ね。絶えさせない血って話ね。まっ、これが伝統って話。
これを続けたのが伝統。しかも、受け継ぐのは技術だけじゃない・・・さっきの宇野君と一緒。そこに他流派だってあって、何の何処が正しいか?なんて誰も判らない訳。まっ簡単に正解があるとしたら?売れているとか、人気がある・・・とかが判断基準になるのだろうが。
元に戻して、愛好家はプロでは無いけれど自分のオリジナルが欲しくなった人だと思うのね。勿論、そこに波及してお金儲けとして売る人もいるだろうし、もっと言えば自分の所に全て置いては置けないけれど捨てるほど悪く無いし・・・と思って売るとか、自分の残したい分の為の敗者処理かも、
知れないがいずれにせよ、何をしてもこだわると残酷な話は付きまとうもので・・・。それに打ち勝つ心も必要になるのね。だから、勝者は大抵無くしたものも大きい・・・ってセリフになると思うのね。やらなきゃそんな事を知らずに済んだのだからね。
ただ当然、無くしたものがあれば掴んだものもあるのね。本来の楽しみはこだわらないと長くは続かないし、続けると気疲れもする。ここで気なんて言葉が出て来る・・・病は気から・・・自分の都合良く進めば気は疲れない。けれど、気が疲れる・・・つまり上手く行かないと病になる訳なのね。
読んで字のごとく的な話で、残っている言葉は先人が大事だから教訓として残っている訳で。だから受け入れてそうなんだぁ・・・じゃ今の私は?って出来るようになれば、良いだけなんだけれど、大抵意識はしていないから、そんな事はいちいち考えない。
しかも仮に考えたとしよう・・・じゃどんな時?大抵は困っている時なのね。それでは無理だわっ・・・全ての一流の人は困る前に困っているのであって、困ってから考えては、良いアイデアが出る訳が無いし、時間も制限されて行くし・・・そもそも準備が出来ない。
それでは結果が出にくいのね。ただ何事も例外があって、書道なら一瞬、演奏なら何分で済むがモザイクでは、一瞬なんてものは無理だし、何分じゃ何も出来ていない。つまり一瞬のパフォーマンスははかなさが売りになるし、はかないからこそ即効性があったりする。
しかし時間の掛かるものって言うのは、その果てしなさの追求なんで、ため息を付かせたり、時に見るものを委縮させたりもする。全く反対側にあるものだったりする。ただそれもよくよく考えれば、その一瞬の為の練習は全く生かされず失敗すれば不甲斐ない結果にもなるし、果てしなさの追求は
心折れれば完成すら見られない事にもなる。もっと言えば、オリジナルなんて一切作らないで、誰かのデザインを真似しているだけで楽しめるのなら、考えて生み出す行為で困る事は一切無いし、創作料理はせずにレシピ通りに肉じゃがやカレーを作れば良いと思うのね。飽きなければ。
真似で楽しめるのは最初だけ。大変でも乗り切った後に見える景色は、乗り越えた人にしか見えないし、負けて得るものがあると言うのなら、勝たなきゃ見られない景色もある。いずれにせよ、選ぶのは自分次第になる。ただそれだけの事。そう言う話をここまで聞いた上で、これを見て貰うと、
お姉ちゃんの作品。きっとこんな手の込んだ作品は一生作らないと思うのね・・・今日もムズイって言ってたのね。しかも自分の結婚式のウエルカムボード・・・何度も作るはずも無いだろうし・・・そんな目的意識が高いシュチエーション無いだろうなぁ・・・今後。
だからこそ、一生懸命頑張って完成して欲しいのね。では更に踏まえて棟梁。
大作疲れから、こっちを完成させてから・・・にしたらしいのね。それも本人の希望なんで良いと思うのね。けれど・・・けれどね。それがどんな意味があるのか?は伝えないとならないのね・・・先生だから。それは気楽だと思っているのね・・・この作品が大作よりも。
既に言葉は悪いが舐めているのね。だから大作では無くこっちにしたんでしょ?疲れているのに大変な方に行く人はいないよね?ここでそうですぅぅぅって言えれば素直なんでどうぞぉぉぉで済む。そこに自覚があるから。しかし、そんな事はありません・・・楽じゃありません。って言ったとする。
じゃ楽じゃないんだね・・・それを終えた時に、もっと楽じゃ無い大作が待っているのかぁ・・・って事になるって事だね。そもそも同じ内容なら、大作でも良い訳で。つまりこっちの方が小さいから・・・終わらせてって思っているのか?理由があるでしょ?意識していないだけで。
棟梁は意識不足。意識して確認してそこに向き合って、自覚してそうすればもっともっと上手くなる。けれど、そこに気が付けないと腕の上手さに心が付いて行けない事になるのね。それが理由に、同じバラの繰り返し・・・1つ成功したのなら色も同じ形も同じ教える事なんてある?
それなのに聞く・・・聞けば教える事になる。しかし教えれば知恵が付く。知恵が付けば考える。考えれば自分なりの正解を持つ。その目で1つ目のバラを見返せばアラも見える。その目は成長しているのだから・・・だから剥がしたくなる。では3つ目を見たら・・・。
本来なら食べ終わってからのお代わりだったら、何もしていないはずが、すでに同じ事の繰り返しとして、能率効率で同じパーツを張ってしまっているから、成功なら進み具合も良いが、失敗なら全部同じ場所が気に入らなくなるのね・・・。ほら良い事悪い事は背中合わせ。起こったでしょ?
楽らく進んで、そんな事を気にしないで進められるのなら、大作よりも楽だろうね。しかし、一度そんな事になったら、あれもこれもとなれば、気になったら最後、これもまた大作になってしまうのね。ただ、やり続ければ大きさから言って、終わりは必ず早めにやって来る。
だから、完成の喜びは早めにやって来るだろうけれど、一旦休憩って程休めない作品になってしまうだろうね。しかしながら、出来栄えは十分過ぎるくらい見事ではあるのね。こんな事も踏まえて、お姉ちゃんが続ける事があれば、いつか棟梁みたいになるんだろうし、棟梁はお姉ちゃんの今が、
かつての自分の姿なんだと思うのね・・・一生懸命やっていて、みんなが良く出来ているね・・・って褒めてくれて、段々終わって行くから、嬉しくて・・・って。でも、その棟梁もこんなに作れているのに、お姉ちゃんにも凄いと言われても、あの時の新鮮な気持ちにはなれないのね・・・。
徳永さんの歌の歌詞のように、思春期に少年から大人に変わる・・・ってからの歌詞。人の心とは移り行くものだったりする。同じままではいられないものなのね・・・そこをあのときのまま・・・とやり続けられるのか?失うものと引き換えに得ようとするのか?
いずれにせよ、教えている人はみんな俺。去る人ばかりなら問題ばかりになるけれど、残っている人がこうして結果を出せるようになったのなら、それに見合った心も会得して貰いたいと思う・・・と言うより、強く願う。そんな後はモンゴルの額装。
ある意味、今日の3人よりもダメージの少ないモザイク制作である。デザインはカザフ模様のアレンジだし、トンカチみたいな模様も存在する。そこにオリジナル部分の馬となる訳だから、1からオリジナルじゃない分、製作費と期日のプレッシャーだけ。内容では何も困っていない。
ただだから楽なんて1つも思わないし、これだけの手間を掛けても本当に判るのは、本気で制作している人だけ・・・。若干虚しさも感じたりするが、そこと向き合うって事はいくらかプレッシャーが掛かったのかな?・・・気を付けないとね。もしかしたら、ミイラ取りがミイラかな?
いずれにせよ、先生もやっているのだから、何しろ何があってもいつも通りの俺でいる事・・・それが全てである。・・・と思われる。
それをかぐやに相談すると、使い方をもう少し幅広げませんか?との事なんで、確かにそれも良いかも・・・ってな話。本来普通は生徒さんってだけなら、こんな話は出て来ないものだが、作家katsuとして何とか成功して欲しいと願って下さる人は、生徒さんってよりもご贔屓さん寄り。
だから、何かをしてあげられないものか?・・・となったりする事が、作品購入になったり、イベントに参加だったり、手伝いだったり・・・そんな中に、出張のワークショップの開催側になり、場所の提供の手配などをやってくれたりもするのね。
これが弟子となると、仕事がして見たい・・・って事になると、かぐややみどりのように積極的に参加したり、そう言う機会を探してくれたりもする。いずれにせよ、そう言う事になると、一般的なお教室とは全く違うものになるのね。
しかも、そうなると単なる技術論では済まなくなる。当然いつも言っている心の問題は大きくなる。そもそも単純に考えれば、何の世界も誰であっても
一緒で、練習なら伸び伸びやって結果は出たりする。子供のゲームも一緒で結果が悪ければリセットってね。
それを学芸会でも受験でも、大会でも、ひとたび失敗は許されない・・・って緊張感の中であれば、日常の力を発揮出来ないのは何故?それは緊張感に負ける心そのものなのね。つまり本当に上手くなるって言うのは、いつも通りに何処でも誰とでも一緒にいられる心も必要になる。
所がこれを思い上がると簡単に平気と言えるのだが、その思い上がりすら気が付かない・・・つまり自覚の無い場合がある。この場合は、崩れている本人が崩れている事にも気が付けない・・・・これが一番の悪だったりする。それは本人だけで無く他人にも迷惑を掛ける事になるから。
所がそれは紙一重なのね・・・例えば競技なら、勝者と敗者になるし、受験でも合格と不合格に分かれる。何故そうなるのか?それは相手がいるから。
つまり1人で永遠に他人と交わらなければそんな事にはならないのに、独りではいられなくなるから・・・。
ただ好きって言うだけで何でも続けたいのなら、群れる必要は無いし、教わった事を黙々と一人自宅でやれば良いし、自分の趣味、楽しむだけなら、全く誰にも見せなければ、上手い下手も問われないし、出来ただけで楽しめる。それが人って言うのは欲望の塊なのね。
続ければ上手くなりたい気持ちが芽生えるが、じゃ世の中ってのは上手くなる基準って何で計るか?となると、単純に2通りあって、先生の評価か自分の眼って感じになると思うのね。これが点数を付けられるものや、成績がはっきりするものであれば誰の眼でもはっきりするが、素敵な物みたいな美の点数は
人の感覚的な曖昧なものになったりする。つまり評価が一定にはならない。ここが美の難しさでもあったりする。それを踏まえた2通りの話に戻ると、まず先生の評価・・・こんな場合、そうね、誰もが知る大先生に貴方上手ね・・・って評価を受けたとしよう。完全に自信になるでしょ?
何でかな?それはハクだね。要するに大先生に褒められたから。ではこの他人事をリアリティを持って緊張感のある話にすると、例えば女の人なら、貴方がフィギュアの宇野君の母親だったとする。その子が幼い頃に、羽生君に頭を撫でられて、上手いね・・・って言われたとする。
そしたら、僕も羽生君みたいになる・・・って言ったとする。そしたら金メダルの人のようになるのだから、当然今までの練習とは変わる。こんな事があったんだろうし、実際そうだったんだろうね・・・は聞かなくても判るでしょ?じゃ、こんな言わなくて判るような事は勉強にならないから、
もしかしたら?・・・って部分ね・・・ではそのリンクにはいっぱいの生徒がいたのに、宇野君だけそう言われたとしたら?多分宇野君自信は何も変わらなくても、周りの人達の反応は様々だったと思うのね。例えば単なる友達なら、良いなぁ・・・だけだが、ライバルだったら?
チェッって気持ちだってあるだろう。何せ小学生だから。そしたら我が子可愛さの母なら、ウチの子は?と思ったりしなかったろうか?逆に単なる趣味程度であったのなら、とてもとてもウチの子なんて・・・と握手と写真で十分だったりもしたかも知れない。
こんな環境の中、続けていたとしたら今の宇野君とライバルとして競い合っているだろうし、もうとっくに辞めているかも知れないし・・・ただね、もっとえぐいのは、褒めて追い掛けられた羽生君・・・凄いのは勝ってまた同じ事をする・・・大きな壁である事。
逆も真なりで、その宇野君は冷静に全ての演技を完璧なら僕が金かぁ・・・って。きちんと追い掛ける所かライバルとして銀に輝いている。人が渦巻く環境を勝ち残ったものが味わえる例だし、眼には見えない敗者の人達がいっぱいいたはずである。人の不幸の上に幸せは成り立つ例。
ではそれが嫌な場合、個人で永遠に楽しむ・・・って出来ればそれに越した事は無いのだけれど、人の欲望ってのは果てしないもので。上手くなりたい・・・って思ってしまうものでね・・・では一体何を持って上手いとするか?になった時に、何でもそうだが何の何処を評価とするか?になる。
まっ簡単な話で言うのなら、昔なら絵が下手だと絵は描けないし、楽器が弾けないと・・・みたいに諦めれば良いが、今はパソコンなんてものがあったりする。つまり実際に描いたものは直せないが、パソコンでは曲がった線を補修してくれたりするから、上手く描けたりするし、色も選ぶだけで、
塗りムラも起こらない。利点はね。欠点は誰でも同じになる。その技術を習得すればね。楽器も同じで、生演奏をするのでは無く打ち込みとして、作り込んで置けば、当日の失敗はほぼ無いし、弾かなくても弾いた事と同じ音で作れたりする。ただアドリブは利かない。
つまり生の場合、その人の今日の気分を出せたりするが、パソコンを通しての場合、技術は全てパソコンの技術になる。要するに絵を描く行為の技術では無く、パソコンの知識みたいな話。こうして言うと、否定的に聞こえるがそうでは無く、結局何をどうやったとしてもオリジナルな訳ね。
だって結局、自分でオリジナルを作らないと人の真似なんだから。あれに似てる、これに似てると先人の有名なものと比較されて、似ていないと下手と言われてコピーとも言われず、本物と区別が付かなければ贋作と称される。ただ名は明かせないだろうがね。
こうした感じが人の眼の評価の話なら、これとは対極にある自分の眼って事になるが、何を持ってしてその眼を養うか?となると、人のを見たくなるんだろうね・・・そこで憧れて努力したのが宇野君なら、憧れを追い越そうとするのも宇野君。ではそこまで行かなくても・・・って人は、
一体どの程度が良いのだろうか?・・・ここね。そろばんなら級とかで判断する。たださぁ、1+1=2はさぁ、否定的になったんでしょ?この国って。
俺はそう習ったんだけれどね・・・2にするにはどんな方法がある?って自分で問題を考えさせる・・・つまり人の問題を解くのでは無くて、自分で
考えるって方向になっているから、十人十色って事にしているんでしょ?今って。でもね、それを2=1+1って言うのなら、結局俺の頃と何ら変わらないのね。当たり前だから。発想力ってのはそんなに単純じゃないからね。そんな事を踏まえた時に、パソコンであっても、実際であっても、発想力の
問題であって、しかし発想だけでは簡単に真似をされるし、だから簡単に真似出来ない事を考えようとする訳で。それを技術だけに走ると、きちんと切れた、張れた、楽譜通り間違えなく演奏が出来た、先生のお手本のような字になった、綺麗に塗れた・・・それをただ繊細にしただけになる。
いつしか飽きるわっ。何故ならプロなら飽きてもやり続けなければならないが、アマチュアならそこまでこだわらずに出来る。しかし、そこまで出来るようになったらオリジナルに手を出さなければ、金魚の飼育って言っているみたいな話になる。
例えば金魚が好き・・・だから飼う。こんな場合、必ず失敗し死んでしまう。それは知識の無さ。ここで脱落すれば飼わなきゃ良いだけ。所が何匹死んでも買い続ければ必ず自分の実力以上の元気な金魚に出会う。そうすればそう簡単に死なない。ほら楽しめた。死んだ者が浮かばれた。
所がいつかまた死ぬ。どうする?それが生きていたのはそいつの生命力であって、必ずまた・・・とは限らないし、そいつの代わりはいないのね。そこで愛好家は血を残す・・・つまり子引きをする・・・繁殖ね。絶えさせない血って話ね。まっ、これが伝統って話。
これを続けたのが伝統。しかも、受け継ぐのは技術だけじゃない・・・さっきの宇野君と一緒。そこに他流派だってあって、何の何処が正しいか?なんて誰も判らない訳。まっ簡単に正解があるとしたら?売れているとか、人気がある・・・とかが判断基準になるのだろうが。
元に戻して、愛好家はプロでは無いけれど自分のオリジナルが欲しくなった人だと思うのね。勿論、そこに波及してお金儲けとして売る人もいるだろうし、もっと言えば自分の所に全て置いては置けないけれど捨てるほど悪く無いし・・・と思って売るとか、自分の残したい分の為の敗者処理かも、
知れないがいずれにせよ、何をしてもこだわると残酷な話は付きまとうもので・・・。それに打ち勝つ心も必要になるのね。だから、勝者は大抵無くしたものも大きい・・・ってセリフになると思うのね。やらなきゃそんな事を知らずに済んだのだからね。
ただ当然、無くしたものがあれば掴んだものもあるのね。本来の楽しみはこだわらないと長くは続かないし、続けると気疲れもする。ここで気なんて言葉が出て来る・・・病は気から・・・自分の都合良く進めば気は疲れない。けれど、気が疲れる・・・つまり上手く行かないと病になる訳なのね。
読んで字のごとく的な話で、残っている言葉は先人が大事だから教訓として残っている訳で。だから受け入れてそうなんだぁ・・・じゃ今の私は?って出来るようになれば、良いだけなんだけれど、大抵意識はしていないから、そんな事はいちいち考えない。
しかも仮に考えたとしよう・・・じゃどんな時?大抵は困っている時なのね。それでは無理だわっ・・・全ての一流の人は困る前に困っているのであって、困ってから考えては、良いアイデアが出る訳が無いし、時間も制限されて行くし・・・そもそも準備が出来ない。
それでは結果が出にくいのね。ただ何事も例外があって、書道なら一瞬、演奏なら何分で済むがモザイクでは、一瞬なんてものは無理だし、何分じゃ何も出来ていない。つまり一瞬のパフォーマンスははかなさが売りになるし、はかないからこそ即効性があったりする。
しかし時間の掛かるものって言うのは、その果てしなさの追求なんで、ため息を付かせたり、時に見るものを委縮させたりもする。全く反対側にあるものだったりする。ただそれもよくよく考えれば、その一瞬の為の練習は全く生かされず失敗すれば不甲斐ない結果にもなるし、果てしなさの追求は
心折れれば完成すら見られない事にもなる。もっと言えば、オリジナルなんて一切作らないで、誰かのデザインを真似しているだけで楽しめるのなら、考えて生み出す行為で困る事は一切無いし、創作料理はせずにレシピ通りに肉じゃがやカレーを作れば良いと思うのね。飽きなければ。
真似で楽しめるのは最初だけ。大変でも乗り切った後に見える景色は、乗り越えた人にしか見えないし、負けて得るものがあると言うのなら、勝たなきゃ見られない景色もある。いずれにせよ、選ぶのは自分次第になる。ただそれだけの事。そう言う話をここまで聞いた上で、これを見て貰うと、
お姉ちゃんの作品。きっとこんな手の込んだ作品は一生作らないと思うのね・・・今日もムズイって言ってたのね。しかも自分の結婚式のウエルカムボード・・・何度も作るはずも無いだろうし・・・そんな目的意識が高いシュチエーション無いだろうなぁ・・・今後。
だからこそ、一生懸命頑張って完成して欲しいのね。では更に踏まえて棟梁。
大作疲れから、こっちを完成させてから・・・にしたらしいのね。それも本人の希望なんで良いと思うのね。けれど・・・けれどね。それがどんな意味があるのか?は伝えないとならないのね・・・先生だから。それは気楽だと思っているのね・・・この作品が大作よりも。
既に言葉は悪いが舐めているのね。だから大作では無くこっちにしたんでしょ?疲れているのに大変な方に行く人はいないよね?ここでそうですぅぅぅって言えれば素直なんでどうぞぉぉぉで済む。そこに自覚があるから。しかし、そんな事はありません・・・楽じゃありません。って言ったとする。
じゃ楽じゃないんだね・・・それを終えた時に、もっと楽じゃ無い大作が待っているのかぁ・・・って事になるって事だね。そもそも同じ内容なら、大作でも良い訳で。つまりこっちの方が小さいから・・・終わらせてって思っているのか?理由があるでしょ?意識していないだけで。
棟梁は意識不足。意識して確認してそこに向き合って、自覚してそうすればもっともっと上手くなる。けれど、そこに気が付けないと腕の上手さに心が付いて行けない事になるのね。それが理由に、同じバラの繰り返し・・・1つ成功したのなら色も同じ形も同じ教える事なんてある?
それなのに聞く・・・聞けば教える事になる。しかし教えれば知恵が付く。知恵が付けば考える。考えれば自分なりの正解を持つ。その目で1つ目のバラを見返せばアラも見える。その目は成長しているのだから・・・だから剥がしたくなる。では3つ目を見たら・・・。
本来なら食べ終わってからのお代わりだったら、何もしていないはずが、すでに同じ事の繰り返しとして、能率効率で同じパーツを張ってしまっているから、成功なら進み具合も良いが、失敗なら全部同じ場所が気に入らなくなるのね・・・。ほら良い事悪い事は背中合わせ。起こったでしょ?
楽らく進んで、そんな事を気にしないで進められるのなら、大作よりも楽だろうね。しかし、一度そんな事になったら、あれもこれもとなれば、気になったら最後、これもまた大作になってしまうのね。ただ、やり続ければ大きさから言って、終わりは必ず早めにやって来る。
だから、完成の喜びは早めにやって来るだろうけれど、一旦休憩って程休めない作品になってしまうだろうね。しかしながら、出来栄えは十分過ぎるくらい見事ではあるのね。こんな事も踏まえて、お姉ちゃんが続ける事があれば、いつか棟梁みたいになるんだろうし、棟梁はお姉ちゃんの今が、
かつての自分の姿なんだと思うのね・・・一生懸命やっていて、みんなが良く出来ているね・・・って褒めてくれて、段々終わって行くから、嬉しくて・・・って。でも、その棟梁もこんなに作れているのに、お姉ちゃんにも凄いと言われても、あの時の新鮮な気持ちにはなれないのね・・・。
徳永さんの歌の歌詞のように、思春期に少年から大人に変わる・・・ってからの歌詞。人の心とは移り行くものだったりする。同じままではいられないものなのね・・・そこをあのときのまま・・・とやり続けられるのか?失うものと引き換えに得ようとするのか?
いずれにせよ、教えている人はみんな俺。去る人ばかりなら問題ばかりになるけれど、残っている人がこうして結果を出せるようになったのなら、それに見合った心も会得して貰いたいと思う・・・と言うより、強く願う。そんな後はモンゴルの額装。
ある意味、今日の3人よりもダメージの少ないモザイク制作である。デザインはカザフ模様のアレンジだし、トンカチみたいな模様も存在する。そこにオリジナル部分の馬となる訳だから、1からオリジナルじゃない分、製作費と期日のプレッシャーだけ。内容では何も困っていない。
ただだから楽なんて1つも思わないし、これだけの手間を掛けても本当に判るのは、本気で制作している人だけ・・・。若干虚しさも感じたりするが、そこと向き合うって事はいくらかプレッシャーが掛かったのかな?・・・気を付けないとね。もしかしたら、ミイラ取りがミイラかな?
いずれにせよ、先生もやっているのだから、何しろ何があってもいつも通りの俺でいる事・・・それが全てである。・・・と思われる。