今日は実家に用事があって・・・それを終えてからアトリエに。そんな中、また小物作品が売れて・・・昨日のお客さん。本当は広げられる話だけれど、報告だけ。更に作品の方は、後これが5枚位残っている感じ。感じ・・・って言うのは4隅をどう繋げたように見せるか?って言うのが、前回は無かったんで、そこを保留にしてい
るのね。それが4つあるから、それで1枚分として、その他に4枚あるから、5枚位って表現なのね。いくらなんでも1日1枚って事は無いだろうから、張り終わるのは2.3日だと思うから、それに目地、後の木の取り付け、それとレロレロの側面のペンキ塗りとなると、それも2.3日って感じかな?まぁ大体目安だった納期には間に
合う予定。勿論、今の状況では開催はすぐされないけれど、荷物だけは送って置くみたいな話になっているので、一応納期は決まっているってそんな感じ。ただ数日遅れたとしても、左程影響は無いだろうから、ほぼ予定内だと思うのね。何と無くだけれど、気分的に先が見えて来た感じはある。しかし考えて見ると、モン
ゴル関連の依頼の時には、今回のコロナと言い、以前は震災だったり、条件の悪い事があるが、逆にこうしてそんな中、やる事があるって言うのは、有難いとただ感謝しか無いと、つくづく思うし、けれど完成を見る事も無く、見せる事も無くと言うのは、手ごたえや達成感よりも、そこに出来上がって乱雑になっているパー
ツ達のスペースがポッカリ開いたスペースになる空虚感的な気持ちの方が勝ってしまったりするもので・・・そこを新しい作品の材料を置く場所に変わったりすれば、また新しい刺激として、気持ちを切り替えるなんて事にも繋がったりもするが、小物なら買わずに作れるし、ただ、そのスペースが開いての片付けの方が
多かったりする。イメージとしては、里帰り的なもので、帰る方は名残惜しくても、家族単位のまま帰るから、置いて来た数の方が少ない。逆に置いて行かれた方は、2人でも寂しい気持ちになるのに、1人だったら・・・なお寂しい。しかも、里帰りって言うシュチエーションは、いつも田舎に両親、帰る人達は都会って図。仮に
これを逆にすると、いささか変わって来る。お爺ちゃん、お婆ちゃんさようならぁ・・・またおいで・・・ってお別れをして、方や田舎に帰る、せがれや娘や孫の家族、そして残される麻布のマンションに老夫婦。こうなると、いつもと違う感じになる。あいつら1時間に1本しか無い所じゃ不便だから、こっちに住めば良いのにな
ぁ、婆さん。所でお爺さん、私は食事の支度をやりたくないから、どうです、銀座でも食べに行きますか?じゃそうしようか・・・と外車で出発。こうなって来ると、寂しいですね・・・と言われても、そこそこ楽しそうじゃんって話。じゃ話を戻して、つまり今の仕事よりも大きい仕事なら悩んでいる暇は無いから忙しくなる。でも、これ
が田舎にポツンと老夫婦なんて感じになるから、心配事が増したりして、寂しさを増幅させる訳で。つまり色んなモノが無くなったスペースは片付いたと取るか?何だかポッカリ空いたスペースって言うのが寂しいと取るかは気分の問題だったりする。勿論、まだやる事があれば、それでもマシだけれど、無かった場合は不
安なんて事がプラスになる。もはや寂しいなんて言ってられない。普通って言うのはこんな理屈の繰返しで、日常を暮らせば刺激が欲しくなる。ぎゃに刺激だらけなら、安堵なんて休みや余暇が欲しくなる。それで安心を手に入れたくなるんだろうし。けれど残酷で刺激は更なる刺激が欲しくなる。だからキリが無い。逆に
日々の繰返しはドラマチックな事が無いから、金太郎飴を切っているように、常にほぼ同じ絵柄に同じ幅、同じ袋詰めに、同じセリフの繰返し・・・これは余りにも普通過ぎて、月並みだけれど無くならないと気が付かなかったりする。しかもそうならない様に・・・と感謝です・・・なんて意識するようになると、とても良い事だ
けど、中々そう言う事が出来ないから、そうだよ・・・の教え的教訓がある。例えば男女平等なんて口にしているのは、そうじゃないからであって、みんなそうなら、文字としていちいち見る事や、聞く事は無くなる。今の外出禁止的なモノだって、世界の死者の数を見れば、危険な事は良く判るはずで、危ないのは百も承知。
でも、家族や身の回りがそうならないと、きっと娯楽を今までのようにしている人達が止める事は無いだろうけれど、言い続けないといけないんだろうね、政治的な使命としては。話は戻って、こんな厄介な話って実は感受性なんて話で、人は感受性をとても良い事と扱う人がいたりするけれど、物事は必ず良い事と悪い
事は背中合わせで、感受性を良い事って言う場合、絵、音楽、美術・・・なんて職業だと、繊細なんて事に繋がって重要だったりする。でもそんな仕事じゃ無くて、普通の人として生きていたとする。じゃ今そんな人はどんな気持ちで生きているか?となると、震災のボランティアなら自分は万全で手助けに行けたりする。それ
が行かなくても、支援と言うお金も出せる。でも目に見える事が出来なかった時・・・気持ちがあってね・・・しかも感受性が強かったら?更に責任感なんてあって・・・きっと自分を責めるんだろうね。心労なんてそう言う事かもね。それが美術、芸術、音楽・・・こう言ったものは発信者の威力があればあるほど、生きる糧を
提供出来たりして・・・・お坊さんなら死者が出てから威力を発揮するが、その前に威力を発揮出来たりもする。ただまだ俺にはそこまでの力は無いが、目指してはいる。おこがましくて励ます事すら出来ないが、必要としてくれるなら、参考程度に俺はこう思う・・・を発信しているだけで、役立っているかどうか?も判らない。
けれど、何かの足しにでもなれば・・・とか、ある意味、これを入れてお前は?といつかの自分に言っているのかも知れない。
るのね。それが4つあるから、それで1枚分として、その他に4枚あるから、5枚位って表現なのね。いくらなんでも1日1枚って事は無いだろうから、張り終わるのは2.3日だと思うから、それに目地、後の木の取り付け、それとレロレロの側面のペンキ塗りとなると、それも2.3日って感じかな?まぁ大体目安だった納期には間に
合う予定。勿論、今の状況では開催はすぐされないけれど、荷物だけは送って置くみたいな話になっているので、一応納期は決まっているってそんな感じ。ただ数日遅れたとしても、左程影響は無いだろうから、ほぼ予定内だと思うのね。何と無くだけれど、気分的に先が見えて来た感じはある。しかし考えて見ると、モン
ゴル関連の依頼の時には、今回のコロナと言い、以前は震災だったり、条件の悪い事があるが、逆にこうしてそんな中、やる事があるって言うのは、有難いとただ感謝しか無いと、つくづく思うし、けれど完成を見る事も無く、見せる事も無くと言うのは、手ごたえや達成感よりも、そこに出来上がって乱雑になっているパー
ツ達のスペースがポッカリ開いたスペースになる空虚感的な気持ちの方が勝ってしまったりするもので・・・そこを新しい作品の材料を置く場所に変わったりすれば、また新しい刺激として、気持ちを切り替えるなんて事にも繋がったりもするが、小物なら買わずに作れるし、ただ、そのスペースが開いての片付けの方が
多かったりする。イメージとしては、里帰り的なもので、帰る方は名残惜しくても、家族単位のまま帰るから、置いて来た数の方が少ない。逆に置いて行かれた方は、2人でも寂しい気持ちになるのに、1人だったら・・・なお寂しい。しかも、里帰りって言うシュチエーションは、いつも田舎に両親、帰る人達は都会って図。仮に
これを逆にすると、いささか変わって来る。お爺ちゃん、お婆ちゃんさようならぁ・・・またおいで・・・ってお別れをして、方や田舎に帰る、せがれや娘や孫の家族、そして残される麻布のマンションに老夫婦。こうなると、いつもと違う感じになる。あいつら1時間に1本しか無い所じゃ不便だから、こっちに住めば良いのにな
ぁ、婆さん。所でお爺さん、私は食事の支度をやりたくないから、どうです、銀座でも食べに行きますか?じゃそうしようか・・・と外車で出発。こうなって来ると、寂しいですね・・・と言われても、そこそこ楽しそうじゃんって話。じゃ話を戻して、つまり今の仕事よりも大きい仕事なら悩んでいる暇は無いから忙しくなる。でも、これ
が田舎にポツンと老夫婦なんて感じになるから、心配事が増したりして、寂しさを増幅させる訳で。つまり色んなモノが無くなったスペースは片付いたと取るか?何だかポッカリ空いたスペースって言うのが寂しいと取るかは気分の問題だったりする。勿論、まだやる事があれば、それでもマシだけれど、無かった場合は不
安なんて事がプラスになる。もはや寂しいなんて言ってられない。普通って言うのはこんな理屈の繰返しで、日常を暮らせば刺激が欲しくなる。ぎゃに刺激だらけなら、安堵なんて休みや余暇が欲しくなる。それで安心を手に入れたくなるんだろうし。けれど残酷で刺激は更なる刺激が欲しくなる。だからキリが無い。逆に
日々の繰返しはドラマチックな事が無いから、金太郎飴を切っているように、常にほぼ同じ絵柄に同じ幅、同じ袋詰めに、同じセリフの繰返し・・・これは余りにも普通過ぎて、月並みだけれど無くならないと気が付かなかったりする。しかもそうならない様に・・・と感謝です・・・なんて意識するようになると、とても良い事だ
けど、中々そう言う事が出来ないから、そうだよ・・・の教え的教訓がある。例えば男女平等なんて口にしているのは、そうじゃないからであって、みんなそうなら、文字としていちいち見る事や、聞く事は無くなる。今の外出禁止的なモノだって、世界の死者の数を見れば、危険な事は良く判るはずで、危ないのは百も承知。
でも、家族や身の回りがそうならないと、きっと娯楽を今までのようにしている人達が止める事は無いだろうけれど、言い続けないといけないんだろうね、政治的な使命としては。話は戻って、こんな厄介な話って実は感受性なんて話で、人は感受性をとても良い事と扱う人がいたりするけれど、物事は必ず良い事と悪い
事は背中合わせで、感受性を良い事って言う場合、絵、音楽、美術・・・なんて職業だと、繊細なんて事に繋がって重要だったりする。でもそんな仕事じゃ無くて、普通の人として生きていたとする。じゃ今そんな人はどんな気持ちで生きているか?となると、震災のボランティアなら自分は万全で手助けに行けたりする。それ
が行かなくても、支援と言うお金も出せる。でも目に見える事が出来なかった時・・・気持ちがあってね・・・しかも感受性が強かったら?更に責任感なんてあって・・・きっと自分を責めるんだろうね。心労なんてそう言う事かもね。それが美術、芸術、音楽・・・こう言ったものは発信者の威力があればあるほど、生きる糧を
提供出来たりして・・・・お坊さんなら死者が出てから威力を発揮するが、その前に威力を発揮出来たりもする。ただまだ俺にはそこまでの力は無いが、目指してはいる。おこがましくて励ます事すら出来ないが、必要としてくれるなら、参考程度に俺はこう思う・・・を発信しているだけで、役立っているかどうか?も判らない。
けれど、何かの足しにでもなれば・・・とか、ある意味、これを入れてお前は?といつかの自分に言っているのかも知れない。