今日はりょうさん教室。ここの所、個人レッスンが続いた事もあり、本人の手応えとしての満足度も上がっているのね。そもそも自己肯定感が低い事もあり、
進んでいる感が余り感じる事も無く、だからこそ個人レッスンにしたとも思える。だから終わった時の笑顔と、充実感的なものが満足感に繋がって・・・
そんな表情と、納得って言うか手応えって言う、やり切った・・・ってものがあると思うのね。その時に、終わったぁ・・・って感じだと、出来たぁとか逃げ切ったぁ・・・
って感じになるのね。こんな場合、時間を逃げ切った・・・みたいな感覚だと、やっとやっと・・・みたいになるから、なんとかかんとかって感じ。
つまり質よりも頑張った・・・って感じだから、まだまだな感じがある。でももし、自己肯定感が低い人なのに、おーって感じに思えたのなら、そこから
一歩上がった感じで、質を認めた感じにも思えるのね。自分のやった事をね。そこを技術が未熟でも、それを見る目を鍛えると、何処が良くて何処が悪い
って見極める目が肥えるのね。そうすると、ただ出来た・・・って甘い判断では無くて、今の自分の最善って言うパーツはこれ・・・って判断が出来るのね。
だから無謀な事を回避出来て、必要以上に失敗をしなくて済むから、それで必要以上に自分を追い込む事が無くなるのね。逆なら、これで良いじゃん・・・
って、質を落としてまで進む事も無くなる。まっ簡単に言えば、100点が良いのは誰もが判る。だから最高を目指すなら100点になる。ほら子供でも判るのね。
でも100点のパーツって誰がどう決めるの?・・・それを今の自分の最善を見極められて進むのと、ただ闇雲に取締り100点が何であるか?判らずに失敗として
追い込んで行くのとでは、全く結果は変わって来るのね。まぁもっと簡単に言えば、この作品を作るに当たって、段々と上手くなって行くんで、後半になると
あぁここ剥がしたい・・・ここも・・・あっこれも・・・ってなると思うのね。でもその時の全力だったんだから、そんな事いちいち取り締まったら、
じゃ完成させて、その腕でもう1回同じ事やりゃ良いじゃん・・・ってな話ね。違うのね、俺も先生として、今の実力ならこれが限界のちょっと手前・・
この位で目指す。痛みはあるけど、痛すぎない・・・ってね。そしてその余力が次の伸びしろになる。これよりももっと、今度はもっと・・・そんな気持ちに
なれば、明日に繋がる。でも、これじゃ駄目、こんなんじゃ・・・なんて実力以上の目で取り締まったら、成功パーツと失敗パーツがアンバランスになり過ぎ。
それと同時に必要なのは、相手にどう伝えるか?なのね。まず模写として本物が気に入ったから始めた訳で・・・その時にこれが絵画なら、その色にそっくりな色を作れると、
一歩本物に近づく。音楽も、昔バンドを組んでいた時に、下手ながらも今のように楽譜もネットの情報も無いから、各々繰り返して聞いて、ここのドかな?
こっちかな?って正解を探ったのね。それをドなら何処でも良いじゃんって人と、正解を求めるって人は、洞察力、観察力、想像力を鍛えていたのね。
それと一緒で、オリジナルを作るには、この見えない力を付けないとならないのね。じゃとうやってそれを付ける?って事になると、俺は自分を語る会話を
する・・・って事だと思うのね。昨日も言ったけれど、5w1hなんてもんじゃ、ただの説明みたいなもんで、コンサートに友達と行きました、楽しかった。
こんな文章では子供の時から、今の歳になっても大して代わり映え無しなのね。だからって、村上春樹になれって言っている訳じゃ無いのね。
要するに情緒なのね。相手にどう楽しかったか?、ただ行ったんじゃ無くて、その友達がいかに自分に取って大事な人だったか?とか、コンサートの前の、
エピソードとか、そもそもそこに行った人達は、みんな同じものを見ただろうし、独りじゃ無いのなら、デートかも知れないし、古き友人かも知れない。
でもみんな同じアーチストの歌を聴いた訳で。だからただ前か後ろかとか、だけで、ただ何歌っただけでは、誰が経験しても言葉として一緒なのね。
それをいかに自分だけの言葉で、このコンサートがどんな気持ちで見たか?みたいなプレゼン的な事を言えるようになる練習が必要なのね。でもこうして文字で説明すると、
面倒だなぁ〜とか、そんなの出来ないとか思うだろうし、モザイクに何が関係するのか?って思っちゃうのね。でもね、元に戻って色は作れないのね。
なのに模写をする。白く見えたから白・・・でも白くは無かったけど、白しか無い・・・赤では無いんだけれど、赤しか無い・・・あっ緑はあった・・・
こうやって不便に作った後にバックがやって来るのね。いつしか・・・それでどうやって最後の色決めるの?って話になるのね。すると最後の最後は、もう
好きなモチーフが終わり、作った感もあり、とうとうって気持ちで、後はバックだけじゃん・・・って呑気な場合は、適当に似た色で・・・って終わらせに行くだろうし、
ここまでこだわって、やっとたどり着いた・・・って人は、ここで失敗したら元も子もない・・・ってどうすれば良いんだろうと、ビビったりする。
同じバックの取り組み方でも、性格がフォワードとディフェンダーとでは、考え方が全く違う訳で。でもそんな気分でいちいちコロコロ変わっていたら、
その日の気分なんだから、何でこんな色にしちゃったんだろう・・・って、恐らく5年後、10年後に見れば、簡単に心変わりするのね。だから、色なんてどうでも良いのね。
それよりも大事なのは、この絵の主人公になる。どんな気持ち?ってね。だから各々になり、正解は無いのね。でもきっと不正解はあるのね。
信号が赤なら止まれ。子供でも判る。万国共通。でも、ギリギリなら行くのか、ギリギリは止まるのか?ギリギリ行く車と、ギリギリ行く歩行者・・・
事故るな。きっと。じゃ青だから行く車、赤なのに渡る人・・・引くかな?じゃ青だから行く車、赤なのにスマホを見ながら渡る人・・・もう運転手頼み。
じゃスマホを見ながら青だから行く車、赤なのにスマホを見ながら渡る人・・・おー高確率ってな具合に、描写を変えると、人の想像をあおれる。
それが作家。そしてそれを17文字で完結すると俳句・・・みたいな、こうやって作家側って言うのは、ありとあらゆる想像で作るものなのね。勿論、作家では無く、
趣味だって言うんだろうね・・・そりゃどうかな?さっきのタイルを切ったり張ったりする時は、ひたすらこだわって、このまま続けたら何処までこだわるの?
それって趣味超えてるじゃん・・・なのに、考える、創作するって事は、このまま0点に近い状況で納得行くのかしら?って話ね。ただやりつけていないだけ。
だからまだ発展途上の切る張る方がそこそこの段階で、創作0の点を上げたいのね。その基本になるのが、自分を語るなのね。どんな気持ち?みたいなね。
でも初期の頃は説明だったり、単なる5w1hすら難しかったりする。でもそこに慣れると、こう思う・・・って、どんなお題でも自分の気持ちを答えられるようになるのね。
それを最初は世間一般の普通みたいな事ばかりを言って、個性は出さないみたいな、体裁とか当たり前とか、もはやその人が答えなくても良い事を言ってたりするのね。
例えば青い空・・・何処の?ハワイと田舎でも空は一緒なのかも知れないけれど、お洒落度は変わって来る。垢抜けた空と素朴では何かが変わると思うのね。
例えばただ青い空なら、みんな同じような色でも、その青い空は、大事な人が亡くなった次の日の空だったり、災害の次の日だったりすれば、切ない青に
見えるはず。それが受験の朝の空と、次の日の朝でも変わるだろうし、補欠の朝と、甲子園初日のエースの朝でも違って来る。だからあなたの朝は何ですか?
なのね。だから安易に色で選ばない。まずそのシチュエーションから考えるのね。そしてそれが決まったら、それに合うのはどれ・・・であって、空は青って
決めてから、そんな事を考えても合うものなんて無いのね。そしてそこが決まってから色を決めると、いつかそれを見た時も、何でこの色?では無くて、この
シチュエーションだったから・・・って言うと、ブレがいちいち無いのね。気分で決めていないからね。まぁ流石にこんな事はkameyaさんでは難しいのね。
これは個人レッスンだから出来る事であって・・・所詮他人事的に聞くのと、マンツーマンで聞くのとでは、受け止め方が違うし、こっちも掘り下げ方が
違うからね。ついつい大人は体裁が得意になっちゃうしね・・・。中々自分を語る・・・なんて余り機会も無いだろうしね。でもね、自分の作品なら、誰にも遠慮無く出来るんだけどね・・・。
そんな後は、少し下絵をやってから面会&父の見守り。何か介護番長だわ。