katsuまるはだかぁ 芸術家への道

モザイクアート一直線のkatsuの日記

キウイとくじらの相席教室と陸前高田の仕込み

2022-04-28 01:08:15 | モザイク作家

今日は午後からキウイとくじらの相席教室。

くじらは久し振りにこんなに進んだぁ・・・って満足していたし、キウイも同じ模様の部分は終わったみたいで、完成までもう一息。そんな中、陸前高田の仕込みを見て、これかぁ・・・と生で見れた事を喜んでくれたのね。

ただこんなにきれいに切ってあると、こんなパーツが売っているって思うだろうな・・・って話をするので、近所の人が外で張っている時に、まさかこれは切って無いよね?・・・って言うので、全部一つ一つ切ってるんですよ。って説明すると、大家さんの奥さんが、それがkatsuちゃんの仕事よっ・・・って言ってくれた話をしたんだけれどね。

こう言うたわいも無い会話が大事で、まさか切ったの?って、タイルを切る事は知ってたけれど、この細かいパーツを切ったのか?って説明して貰って驚く人がいて、大家さんの奥さんは、遅くまで休み無くやっている事を知っていて、尚且つ

何度もやっている事を見てたりするから、果てしない事を認知してくれているから、良く見て・・・切ってある事、katsuの仕事は果てしなさが凄い・・・って説明をしてくれたりする。くじらは、何年もここに来ている生徒だから、自分も

同じ材料を使っているし、十分理解した上で、技術を評価して、こんなの出来ない・・・ってビックリしてくれる。キウイは、パーツの細かさはビックリはしない。当然な話で、これだけの大作を作れる人はパーツの細かさは一緒なのね。

果てしなさは十分判っているし、腕前としても十分な人であったりする。ある意味、審査員的な人であったりする。そんな人は、先生katsuでは無く、作家katsuを見る目だったりするのね。この狭さの中、広げられないのに、どうやって作るのか?・・・

とか、また何か、思い入れみたいな、そんな事が隠されているのか?とか制作秘話的な事とか、ブログでは入れ切れない事だったり、色んな角度から質問されたりする。それを聞いたくじらにしても、その話は実は俳人のくじらの立ち位置で

聞けば、あぁなるほど・・・って判ったりするのね。例えば知らないまでも、俳句は17文字しか無いのね。みんな条件は一緒なのね。そうなると大作って言うモノは無いのね。つまりモザイクならコースターを永遠に作り続ける事になる。

ここが凄く難しい話で、俺とてキウイ相手にコースターで競ったら、10個作って10個とも勝てる気はしないのね。恐らくパーツの細かさみたいな技術面では、コースター程度の大きさでは差を見せられない。となると、いかに自分らしい視点

、いかに変わっているか?とか、構想段階で変化させる事になるだろうね。だとしても、キウイの実力を持って、可愛い作品とくれば、可愛いを競っても競合するだけで、先生として見せつける差にはならないのね。それがくじらだと、技術面

の差はあるから、確かに細かく作れば差はある。だから人は、自分と比較してなにが出来ない事か?って事で、判断材料にするのね。それを素直に表現する場合、一番最初に思った事を口にするものなのね。それを負けず嫌いとか、単なる好み

で表現をするような人は、どの位掛かるの?と聞きつつ、じゃ俺は倍くらいやれば出来るかぁ・・・とか、こう言うの好きじゃ無いとか、思い込んだり、モチーフが自分の好みかどうか?だけの判断になるのね。ただそれが普通なのね。

そもそも、レアだの、オタクだの、マニアだの、言い方は色々あれど、そういう人達は人よりもこだわりが強いのね。だから細かい事、奥深い所まで見ようとする。だとしたら、くじらは俳人としてどうだろうか?って聞き返した話で、

俳人として考えれば、こだわっている人を前にして、実は自分もこだわっている側の人・・・その分野が判らないまでも判ろうとすれば、しないよりは理解出来る方向にある。それを踏まえて考えれば、この鯉を作った人として考えるべきで、

考え方として、自分を低く置けば、私なんて・・・って言う表現になる。ただ、そこを低くさせない為にも、俳人なんでしょ?・・・って言えば、きっと気が付くはずなのね。気が付けば、話は簡単なのね。つまり達者になって行くと、当然

もっと上達したい・・・なんて事になったりすれば、コースターだけ作り続けても、コースター職人にはなれるかも知れないが、素人に大きく差を付ける事は難しいものなのね。何しろ素人にはビギナーズラックもある。

どんな人でもそうだけれど、技術や知識、そして経験って言うと、色んな事を持っていると凄い・・・と思いがちなのね。確かに理にはかなっていると思うのね。しかし、あるって事は、無くなったものがあるって事なのね。

それは経験値がある・・・これは新鮮さが無くなった・・・とも言えるのね。例えばベテラン・・・初々しさが無くなったとも言えるのね。つまり経験値が邪魔をする訳で。つまりその初々しさこそが、やりたいって気持ちの頑張りから生まれたビギナーズラックであるのなら、

ベテランには作れないものなのね。だからこだわる方向へ歩く事になるのだけれど・・・。その時に、大作へ行った人は、自分の実力を測りに歩いた事になるのね。だから、たどり着く人、頓挫した人、挫折した人・・・色々あって。

だからこそ、誰でもたどり着ける訳じゃ無いから、完成してたどり着いた事が凄い事になるのね。でもコースターでたどり着け無かったら、もはややる気は無いでしょ?とても判りやすいのね。ただ判りやすいって事は、判りづらい事がある。

これが逆も真なりとか、良い事と悪い事は背中合わせ的な話で、つまりこんな事を踏まえて、17文字でベテランも新人も競う事になるのが俳句。しかも題材は人口分、使われて行く訳で・・・例えば、季節なら桜なんて、きっといにしえの時代から、

うんざりするほど使われているだろうね。それをかいくぐって、自分らしい桜の俳句作れる?って言うようなもんだし、例えばレーザーディスクやら、ポケベルのように、消えて行くようなものを題材にすると、時代背景こそ振り返れば判るが、

後世に残すものとしては、安易であったりもする。こうやって俺ごときの俳人でも無い奴でも、考えればこんな事があるだろうな?的な事は想像が付く。しかも17文字・・・いにしえの時代からルールは一緒。モザイクもニッパー1本。

くじらは野球も好きだから、比喩に使いやすいが、ホームランバッターなら、40本は期待する。しかしその分、打率は3割を切っても仕方ないだろうな・・・これを知らずとも変化させれば、ホームランは要らないから、打率を3割・・・

ほら考え方が変わるでしょ?つまりホームランを狙うと振るって事になるけど、ヒットは当てるって感じになる。つまり一発狙いは、釣りなら坊主って0匹かも知れないが、幻の魚とか、大物狙いって事になるし、当てるって表現は、コツコツ

みたいになると、イワシやアジのような群れを当てて、1匹の価格は安くても、沢山・・・って量で勝負。こんな表現の違いがあると思うのね。つまり思い付く題材を見つけては書くスタイルは、一発狙いにも思えるし、レキシさんの歌のように、

歴史くくりで作って行くと、もはや誰も手は出せないし、個性としては十分なのね。こうなると、水玉模様の芸術家とか、ワに、傘、花みたいなマークを見るとあの人とか、あの会社みたいに認知されたりもする。

まぁ長くなったけれど、個性とか自分らしさとか、そんなもんは中々、経験値が増えると見つけにくいが、チルチルミチルじゃ無いが、実は原点にあったりするもので・・・まぁ俺も探し中だから、大きな事は言えないが、ただ参考までに。

そんな後は陸前高田の仕込み。まぁ折角なんで、今の話を掘り下げるとして・・・これを見て頂こうかな。

左右対称になる陸前高田市の花の椿。リアルに作るつもりが無かったから、マークみたいな雰囲気と、違和感としての丸に気が付いてくれれば、切ってあるのかな?・・にたどり着いてくれるかな?ってな爪痕残しのアピールとする。

わぁ綺麗・・・って言う人は、それはそれでOKなのね。しかしもし、モザイク通だったり、生徒さんだったりすると、

アップで違いを見て貰おうかな?

何か違うの判るかな?・・・実は赤い部分が、上は流れを作ってリアル感を追求しているのだけれど、下はクラッシュってランダムに入れているのね。さてどんな違いに見える?・・・2枚いっぺんの時は、2つ同じに見えたりしたけれど、

実際は結構違う事をしているのね。一見は同じに見えても、良く見ると違う・・・ここに気が付いた人は、マニアだ、オタクだ・・・って人のように、よぉぉぉく見た人なのね。だから本質を見ようとする。けれど左程興味も無く・・・とか

何と無く・・・って言うのなら、何見ても一緒なのね。ただそれでは極める側には行けないのね。何を見ても、何か感じる事、それを表現しようとする、考えるって事をしないと、作る時だけ考えるって言うのでは、試合だけ出るみたいになる。

それでは上手くなりづらい。何しろオリジナルって言うのは、作詞、作曲、編曲、演奏、そして歌唱みたいな事をしたい訳で・・・つまりモザイクとしてタイルを切る・・・ってだけでは無く、作曲ならギターやピアノ、そしてパソコンを

触りたくなるが、作詞・・・つまりモチーフ探しやら、考えるって部分は、いつ何時でも出来るのね。色んな機材は要らないのね。話は戻して、モザイクをした事が無くても、違いが判ると、ご飯が作れなくても味は判るみたいな・・・。

勿論、経験値があれば、具体的にどっちが良いか?と自分の作品に生かすも良いだろうし・・・そして俺は何故こうしたか?の意味は、一見同じようでも、全く違うものがある・・・見極める目が必要かな?と・・・。

つまり具体的に言うなら、8つの合併して陸前高田市になった。きっとそこには色んな事があって、奇跡の一本松の話では無いが、残す側と残さない側みたいな事があったように、8つもあれば、もっとそんな事があったんだろうな・・・。

つまり意見が違っても1つになった・・・を表すには、左右対称では無い方が、でも1つになった・・・の表現の方が良いのかな?・・・と思ったからなのね。ただ楽を取るのなら、ただ帳尻合わせで時間短縮なら、クラッシュを選択した方が

得策なんだけれどね・・・。


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