今日は棟梁とリピーターさんの相席教室。そんな朝、枕代わりに海外のモザイク本を2人に見せて見たのね・・・意地悪にならないように、ウチでは猫マタギの本でね・・・って前置きをして・・・更にオフサイドトラップ・・・引っ掛けにならないように・・・リピーターさんから見せたのね。
まずウチでは猫マタギ・・・これは誰も興味を示さないって意味で、リピーターさんから見せたのは、棟梁の方が上手い前提で、もし棟梁から見せて、その意見に左右されては自分の思った意見を言えないと困るのでね・・・。この環境ならきちんとした自分の意見が聞けるって事。
すると、本を見るなりすぐに食いついてくれたんだけれど・・・・そうお気付きの方なら、だけれど・・・。そうね、肯定な感じからの否定。食い付きは良かったが、内容は・・・って。良くある行動なんだけれど、ここもオノマトペみたいな話で、擬音なんか1つで判りやすくなるのだけれど、
パラパラとめくって行く速度に興味感が伝わらないのね・・・・パラパラって言うのは、色んな画像があるにも関わらず、一定の速度で興味を示すピタッってものが無いって感じで、この速度ではあっと言う間に終わった・・・って事になる。
そこで間髪入れずに、どうでした?と質問すると・・・好みじゃ無かった・・・みたいな表現をしたのね。じゃ棟梁は?・・・ほぼ全く同じ答えだった。これがとても大事な話で、同じ人に習ってはいるが、習っている時間の差もあって、学年が違う・・・そんな感じだったとするのが2人の差として、
ただ同じものを見た感想が一緒だった・・・と言う事実。では一旦離れて、今日の朝ドラで、主人公がお金を財布からバラバラって落としてしまった時、見ていた人に、探し方を注意される・・・そんなシーンがあったんだけれど、あっちかな?こっちかな?とウロウロしていただけで、探すって行為から、
ほど遠かった・・しかも、道路の真ん中で財布を開けては物騒だし、ぶつかられたら落とす可能性は高くなる・・・そんな事を言われるのね。まさにその通りで、これが本当なら、1つ1つこれは無いな・・・ときちんと消す事であり、ウロウロしない事が大事って教訓にするのなら・・・・。
まずその海外のモザイクの本は、お金を取った時点でプロの作品なのだから、思い切り遠慮なく切り捨てて良いものであり、遠慮はいらない。逆にプロでは無い場合、参加する事に意義があるのだから・・・って言うのだから、オリンピックが最高峰みたいな感覚だから、拾うって感じになるのかな?
つまり評価の仕方は優勝だけのプロとは違って、入賞って6位以内だっけ?そこまであって、メダルも3つあったりする。素人は割と手厚い評価の仕方があって、もっとえぐれば、プロはそれが即収入に反映したりもする。まっ、甘くは無いって話なのね。
ではそれを前提にすれば、プロが1冊分の作品でモザイク好きの習っている人に、1つも目を引く事が出来なかった・・・そう言う事になる。それを表現として好みじゃなかった・・・となるのだけれど、それは違うのね。実はもっと残酷なものなのね。
では仮にテレビチャンピオン的発想で、1次予選と決勝ラウンドみたいに2回に分けて戦う事にしたとする。もしその時に、自分が審査員だとする。落とす基準が好み・・・って。それでは素人。つまりここでの素人はモザイクの経験値が無い人の事であって、それなら好みでしか選べないと思うのね。
でも2人は習っている人・・・それをいつまで続ける気なのかな?・・・それでは意識が変わらないから、上手さと言うのが止まってしまうのね。つまり実は好みでそう言う意見になったのでは無く、興味が沸かなかった・・・何故なら切り方も粗雑であって、プロ感が伝わらなかったんだろうね。
では何で?つまり2人はアトリエで見る人達の切る技術を見慣れてしまったから。それを普通としているから。ただ人として、言葉1つで思い上がっているとか、感じ悪いとかを普通は気にするから、まさか本まで出している人に向かって生徒の身分で切り捨て御免的発言は出来ないし・・・。
それを曖昧にする言葉として、好みじゃない・・・を使えば、お互い傷付かずに済む・・・って事が含まれているのね。けれど、この行為に違和感を感じないかな?・・・・何故プロに気を使うの?アマチュアが・・・遠慮無く切り捨てて良いんじゃないのかな?勿論、アトリエ内でね。
外でやれば嫌われるからね。けれど、上手くなるって言うのは、良いか、悪いかのいずれか?になる。得たいか?得たく無いか?みたいなね。そもそも得たい事があれば、真似したくなるでしょ?・・・・それをまた遠慮が美徳なんてすると、そんな事出来る訳無いし・・・となったりもする。
けれど、お母さんの中には、今日お店で食べた料理を真似して作る人いない?・・・ほらいるでしょ?完全コピーじゃないにしろ、風味だったり、もどきだったり、っぽい・・・くらいにはするでしょ?あの感覚があるのなら、出来ない・・・では無く出来るかも・・・なのね。
まっ、今風なら、YouTube的な感覚で、やって見た・・・踊って見た、歌ってみた、弾いて見た・・・あれね。その繰り返しで上手くなったりもする。最初は真似から始まったりするのだから。けれど、その真似すらしたいと思わなかった・・・いや思わせる事が出来なかったプロ・・・。
そう言う言い方もある。ではこんな意識があったとして、アトリエ内での指導は、聞かれたら良い、悪いに関わらずに自分の意見は遠慮なく言う。ただその意見は時に相手を傷付ける事になる事もある・・・けれど、上手くなりたいのなら、傷付く事の回避では無く、打たれ強くなる事。
長く続けば批評も受ける。批評は人の意見であり、必ず褒められる訳では無い。そもそも自分の都合の良い事ばかりって言うのは、大巨匠みたいな人なら別だが、発展途上の人に良い事ばかりの方が違和感があるんじゃないのかな?・・・・これが楽しむだけなら全く必要は無い事だけれどね。
ただね、これが個人レッスンなら、何をどうしようとその人だけのスタイルを押し通す事も出来る。ただ相席と言うのは、相手の指導も聞こえてしまう・・・つまり言葉を選ばなければ、楽しくのんびりしたい人と、上手くなりたい人では空気感が違うし、逆に上手くなりたい人同士では、
ライバルのように同じ力なら、ピリピリするし、逆に発展途上の相席では、先生の取り合いにもなったりもする。そんな事があったりするとして、ではこの2人は?・・・ほら同じ本を見た感想が一緒・・・つまり見ている場所の違いだけで、同じものを見ている感覚では無いのかな?・・・
そうね、舞台を見ているとでもしよう・・・棟梁はいつかその舞台に立って見たい・・・と客席の最前列にいる感じで、リピーターさんが2階席にいるって感じだとする。けれど、2人の見ている舞台が一緒で、同じ事を見る位置が違っているだけだから、同じ事を共有出来る。
つまり指導は同じ事を言っても、棟梁に言った事はいつかリピーターさんも使う事になるだろうし、リピーターさんへの指導は、以前の棟梁って感じで、初心忘れるべからず・・・みたいな話。それで、ここまで判って貰ったら、本当に大事な事は何か?になるのだけれどね、また脳の話ね。
子供の頃は何でも、それ何?・・・これどうすんの?と何でもかんでも引っ掛かったのね。どんなルアーにも喰い付く腹っぺらしな魚みたいにね。
それがいつしか大人になると、自分の興味のある事にしか反応しない凝り固まった脳になって行くのね・・・。
そうなると、もはや進歩を止めた人になって行く・・・しかも年齢と共に体力も衰えるのだから、衰退するのみ。そこで登場させるのが、子供の頃に習った反面教師・・・つまり相反する考え方は自分の選ばない最も遠くにある事になる・・・つまり経験する事無く嫌い・・・つまり喰わず嫌い。
それが俺のように、くれた子供の前でプチトマトを涙を流して食べる場合は、食べて嫌いだから本当に嫌い。だけど・・・加工したケチャップは大好き・・・ほら抹殺じゃない事ってあるのね。つまりさっきの本を好みじゃない・・・ってパラパラするんじゃなくて、嫌いな部分が何処だか探す。
何の何処が嫌いなのか?ってね。勿論時間があったらね。そうした時にももし事実が、切って無いから・・・とか、切り方が粗いからとか理由が見つかったとして、だとしたらもし、その粗さが自分の作品の何処かに入れるとどうなるか?・・・と想像するのね。そうやらずにやった感・・・。
これが泉谷しげるさんの名曲、春夏秋冬の一節で、となりを横目でのぞき、自分の道をたしかめる、またひとつずるくなった、当分てれ笑いがつづく・・・みたいな感覚であって、いかに人の経験値を吸収するか?はいらないものかどうか?は、いる前提じゃないとね・・・。
一旦受け入れないと、単なる好みから抜け出せない。それでは、ただ切る張るの技術の向上か、オリジナルとしてのデザインの向上みたいな話でしか無くて、何年もやり続ければいつか膨らまなくなる。だからそれを防ぐには思い込みをしないようにする・・・。
それを踏まえてもう一度、この本を見ると、その中には盗むべき事が必ずある。好みじゃないなら尚更ね。そもそも好みなら言おうが言うまいが、やりたい・・・って言うだろうね。きっと。つまり気が付かない事に気付いて貰う事なのね・・・指導ってものはね。
それによって、それを知ってそれをいつ何処で使うか?になり、それを脳の片隅に入れられれば、困ったような時にあんなのあった・・・なんて引き出しが1つ増えた事になるのね。今日はそんな話を重点的にしたのね・・・・何しろ2人共、難しい事をやるようになっているからね・・・。
こう言うと何が難しいか?となるのだけれど、例えばこの天使・・・どんな感じに作りたいの?って質問に、清楚な感じって言うのだけれど、清楚ってどんな感じ?となると、安全なのは白衣の天使ってな表現があったように、まさに白なんて言うのは王道だと思うのね。
ただその制服だって淡ければ、水色やらピンクやらって選択だってあったと思うのね・・・今風ならね。しかも棟梁は濃いはっきりした色が好きなのね。つまりそう簡単に抑えたままでいられるはずも無いのね・・・だって濃い色が好きなんだから・・・。
所が女の人であるから、白って色で我慢しようと思うと、キラッってしたくなるものなんでしょ?・・・そこでパールや白金なんかを使っていたのね。そこで使ったパールの分をマットの白でスカートを押さえたら、今度はイヤリングに宝石を入れる事になった・・・・。
何かこのやり取り、お母さんと娘さんのやり取りみたいな感じで、これがダメならこれ・・・これがダメならこれ・・・みたいになっている。ただどうして抑えた事を言わないとならないか?って言うのは、あくまで清楚を守る為であって、それは棟梁が決めた事なのね。
それをコラえられないな感じで、新しいものを発見すると何とか押し込んで来るから、ギリギリなら仕方なしって感じになるけれど、やり過ぎになると清楚から離れるような事は却下にしているだけなのね。ただ却下する原因は自分の発案の清楚なんだけれどね・・・・あはははは。
所がこのやり取りの最低な事は、通らないと諦めてしまったり、勝手に進めちゃったりすると、もはや先生いらずで、ほぼもう教える事は無くなる。例えば子供の頃の遠足で、カルピスはジュースかどうか?フルーツならお菓子では無いから、お菓子とは別に持って行って良いか?とか・・・・。
あんな事ってどうしても・・・って感じで頑張って説得したのね。つまり使いたければ、これを使ってもこんな清楚がある・・・って、説得してくれれば良いが、思い付きやら、ごり押しではもはや清楚を諦めれば・・・と言いたくなるのね。あはははは。
それが逆に、言われたら、じゃ諦める・・・とすぐに引いてしまう人もいる。けれど、そうなると、100から0になってしまった事になる。そもそも自分のやりたい事を100にイメージしたのなら、それは無理なら97・・・ダメなら83・・・みたいな下げても何とか提案するべきだと思うのね。
なのに諦めるのでは、何を根拠に提案したか?となると、明らかに思い付きになる。つまり通ったら使いたい、ダメって言われたら諦めるじゃなくて、何とか残したい・・・って提案じゃないから、簡単に諦められるって話で、そのやり方は提案を100個用意するような数打ちゃ当たる的発想なのね。
ある意味そっちの方が難しいと思うけれどね。そう考えると、清楚に見えるを前提に提案をしないと、お門違いなら提案前に却下になる可能性を秘めていた訳で・・・ただ、俺も先生だからむやみに却下にするつもりが無いから、相席の人の目が大事になるのね・・・くっっっ。
腕の達者かどうか?は経験値が大事だけれど、これを使うと清楚かどうか?はその人の感覚であり、それは経験値では無く、五感のようなもので、感じられたかどうか?なのね。ただ感じるって言うのも、鍛えないと曖昧な感では成長しないのね・・・どう感じたか?を言葉にして伝えないと・・・。
それを相手に感じて貰って共有出来た時に、そうする為にはどうしたら良いか?・・・となる。その目を磨き、その感を磨くと、それらを持ってして取り組むモノ作りは根拠あっての事であって、これがいつしか基本になると、自分の中に確立する何かが出来るようになる。
しかもこんな事をやり取り出来る相手がいる・・・これこそが相談相手になり得る人であって、ただ何と無く体裁で、良いですね・・・って言うのを何百回聞いても何の役にも立たないのね。このやり取りは批評をしたり、批評をされたりの練習にもなるしね。
何もタイルを切る張るだけがモザイクじゃないし、オリジナルって言うのを作るって言うのは、目に見える技術だけじゃなくて、目に見えない技術って言うものもある・・・そんな話でもあったりする。むしろ目に見えない部分の方が難しい気もするけれどね・・・・。
その後は、やはりミヤコウミウシ。終わりは近いと思うんだけれど・・・何か長い気がするのね・・・まっ、そんな気持ちの中でだから、まずまずなんだろうけれど・・・。