朝日新聞(大阪本社)8月26日朝刊「声」から、東京都・嶋田さん(男性78)の投稿を転載します。
◇◇◇◇◇
敗戦前日の昭和20年8月14日の夜、宮内省の雅楽の学校の生徒だった私は、空襲警報が鳴ると、皇居内にあった宮内省ビル屋上の監視台で若い職員と敵機を監視していた。B29の爆音を耳にしたら地下の宮内省防空本部に知らせるのだ。
めったに鳴らない防空本部との直通電話が鳴った。
「すぐ本部まで来い」
私は監視台を下りて、垂直はしごを滑るように1階まで下りた。地面に足が着いた瞬間、「誰か」と問う声と同時に、尻にチクリと痛みを感じた。何と、銃剣を突きつけられていたのだ。
本部は60人前後の職員で既に満員だった。目の前で1人の将校が軍刀を振り、大本営や他省庁への電話線をバサッバサッと切った。
昨日まで親しくしていた近衛兵たちが完全装備で、本部出入り口を固めていた。私たちは翌日の明け方まで拘束され続けた。
15日正午に流れた天皇陛下の玉音放送を泣きながら聴いた。午後になって、宮城警備の近衛兵が玉音盤を狙って戦争終結を阻止しようとしていたのだと知る。
17歳だった私は、軍隊の怖さが身にしみた。有無を言わさず、自由が一方的に奪われる怖さだった。