文章を書くのと違って、いろいろなことを考えながら、思いながら書く。
上の絵はドイツの町、11月、しかも雨の日、その雰囲気を出すのが難しい。緑の木はもっと沈んだ色、でもその色を出すのは難しい。
自然の中には原色はまずない。影を黒くすると絵がきつくなりがち。
手前は絵具を濃く溶いて質感を出し、遠くは薄く塗って視線を流す。言うは易く、行うは難し。
空は静物画の背景と同じ、前景を邪魔せず引き立てる。本当に薄く溶いてさらりと一筆、あーーー失敗した。何度水を付けた筆で洗っても色が取れん。ああーーー。
あと二回くらいで一応完成したいけど、どうなりますやら。取り敢えずこれからも頑張る。ボーッとしていても一日、頑張っても一日、同じ一日なら頑張って一日を気持ちよく終えよう。
この歳になって、自分が描きたくて絵を描く。楽しい。サークルの指導にある先生が来られる。夫は高校時代も美術部、その時にはすでに先生は広島美術界の新進の画家として知られた方だったらしい。
「上の人がみんな死んだから、今では広島で一番偉い先生になってる筈」とのこと。
素人がなぜ絵を描くかと言えば、下手なりに自分なりに、うまく描けたときの達成感を味わいたいから。先生はどんな未熟な絵も決してけなしません。何か一ついいところを見つけてそこを伸ばすような指導をされる。
この歳になってやっと自分の絵をしっかり見てくださる方に出会ったようです。
大学の美術部ね・・・・私にとっては居心地悪い場所だった。いえいえ、それは自分の性格が招いたこと。だから、他のサークルにいたとしても似たようなものだったと思う。
先日友達と話したんだけど、高校、大学と共学校での女子の正しいふるまいについていろいろと有意義な意見を交換した。
その日の結論は「男子は美人で男を立ててくれる女子が好き。その他は全然どうでもいい」と言うもの。まあ身も蓋もありませんが、ジェンダー規範を打破すべきとこれだけ言われる時代になっても、あまり変わらないのではと思う。
いえいえ、人に立てられるのは男も女も気分いいもの。私にはその基本的なスキルが決定的に欠けていましたね。
ここまで書いて胸がざわざわする。
居るだけでその場が楽しくなる人、みんなをうまくまとめられる人、華やかで連れて歩くだけで嬉しい女の子、頑張って絵を描いて黙ってその真面目な姿を見せる先輩・・・私はそのどれでもなかったんだという今さらながらの苦い思い。
今はそんなややこしいこと考えなくていい老人ばかりの集まり。心はものすごく平安で、絵を描いていればいい。他のことは何にも考えなくていいこの幸せ。しみじみ。
あのサークルで何を得たのかな。嫌なことばっかりだったような気がする。地元の高校出身者が多かった。話に入って行けなかった。私が一人で絵を描いていても誰も寄ってこない。隣の準備室で、楽しそうに話してこちらへは来ずにさっさと遊びに行く人たち。私ってよほどとっつきにくい人間だったのかも。
今の同居人はそのサークルにいたんですよね。私は途中で退会したのでほとんど話すこともなかったけど、1968年1月、大学が無期限ストライキに入って集会で時々顔を合わすようになり、集会のあと少しずつ話すようになり・・・いろいろあって・・・さらにいろいろあって・・・さらにさらにいろいろあって…今に至る。
今思えば、本読んで、いろいろめんどくさいこと言っていた女の子にも少しだけ光が当たった稀有な時代。それならそれに徹底すればいいのに、何であんなに不全感があったのかな。いやいや、こんな訳わからん言葉遣うから嫌われんだ。
夫が私の絵をいろいろ批評する。10代にはその一言にだってものすごく傷ついていたのに、「そんなに言うんなら、あんたあ描いてみんさいや」と、あれほど使いたくなかった広島弁を駆使して切り返す私。それにしても何であんなに傷ついてたのかな?不思議??
そうそう、夫は絵描きになりたくて美大を受けるつもりだったのを担任の先生に反対されたと聞いた。絵描きは野球選手と同じ、堅い職業に就いたほうがいいと言われたとか。さすが先生。今はたぶんそれでよかったと思っているはず。確認はしてません。
歳とるのは絶対に悪いことじゃない。いろんな景色が俯瞰できて、心の整理をつけられる。どんなことにも動揺しない心の金剛力が身につく。
体に気を付けてうーーーーんと長生きしようと誓った敬老の日。
いつか夫が何を血迷ったか小説を書き始めた。「見せてみなさい、添削してあげる」とディスプレイを覗き込み、最初の一文からそのあまりのあまりさに大笑いしてしまった私。なんかついでに思い出したので、ついでに書いておきます。