経営コンサルタントへの道

コンサルタントのためのコンサルタントが、半世紀にわたる経験に基づき、経営やコンサルティングに関し毎日複数のブログを発信

■【きょうの人】 0516 呂尚(太公望) 釣り人でなくても知っている人 ■ 三浦按針 ■ 西郷頼母

2023-05-16 06:33:00 | 【話材】 きょうの人05月

 

  【きょうの人】 0516 呂尚(太公望) 釣り人でなくても知っている人

 

 本日、ゆかりの人をご紹介します。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取っていただけると幸いです。

 

■ 呂尚(太公望)

 

 ょしょう
 生没不詳

 

 紀元前11世紀ごろの古代中国春秋時代・周国の軍師としてしられ、後に、斉の始祖として現在の山東省を中心にした国です。

 呂尚の姓は姜、氏は呂、字は子牙とか牙、諱は尚です。軍事長官である師の職に就いていたことから、「師尚父」とも呼ばれます。

 謚が「太公」であることから、斉太公、姜太公の名でも呼ばれます。

 呂尚は、釣りをよくしていたことから「太公望(たいこうぼう)」と呼ばれ、日本では、釣り好きの人達を表す代名詞として使われます。

 

 

◆ バックナンバー

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b57a13cf0fc1c961c4f6eb02c2b84c9f

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■【きょうの人】 0515  摩訶迦葉 仏教教団で釈迦の後継者 第2祖と呼ばれる

2023-05-15 06:33:00 | 【話材】 きょうの人05月

 

  【きょうの人】 0515  摩訶迦葉 仏教教団で釈迦の後継者 第2祖と呼ばれる

 

 本日、ゆかりの人をご紹介します。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取っていただけると幸いです。

 

 摩訶迦葉 仏教教団で釈迦の後継(第2祖)

 まかかしょう
 生没不詳

 摩訶迦葉、摩訶迦葉波、迦葉、迦葉波、大迦葉と呼ばれる、釈迦十大弟子の一人です。

 仏教教団で釈迦の後継(第2祖)とされていて、釈迦の死後、初めての結集(第1結集)の座長を務めました。頭陀第一といわれ、衣食住にとらわれず、清貧の修行を行った人として知られています。

 迦葉は古代インドではありふれた名であったといわれ、仏弟子中には三迦葉という三人兄弟や十力迦葉という名前も見受けられるますが、摩訶迦葉とは別人です。

 生い立ち等、伝説が多く、諸説あり、その一つによれば、マガダ国の王舎城付近の摩訶波羅陀(マハーハーダラ)村のバラモンである尼拘律陀羯波(ニグローダ・ゴーパ)の子で、畢鉢羅樹(ピッパラ=菩提樹)の下で生まれましたので、幼名を畢鉢羅耶那(ピッパラヤナ、ピッパリ)といったそうです。

 8歳でバラモンに入門し修行してすべてを得て、さらに出家して求道したいと考えました。

 迦葉は出家してもバラモンの修行をしていましたが、王舎城と那荼陀(ナーダダ)村の間にある一本のニグローダ樹下に坐していた釈迦と出会い、ついに仏弟子となり名前を正式に迦葉と改め竹林精舎に到りました。

 釈迦に入門したとき、すでに32相中、7相を具えていたとされ、8日目に阿羅漢となったと伝えられています。

 

 

◆ バックナンバー

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b57a13cf0fc1c961c4f6eb02c2b84c9f

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■【きょうの人】 0514 江藤 新平  幕末明治初期の佐賀藩の藩士「佐賀の七賢人」

2023-05-14 06:33:00 | 【話材】 きょうの人05月

 

  【きょうの人】 0514 江藤 新平  幕末明治初期の佐賀藩の藩士「佐賀の七賢人」

 

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。

 

■ 江藤 新平  幕末明治初期の佐賀藩の藩士「佐賀の七賢人」

 えとう しんぺい
 天保5年2月9日(1834年3月18日)- 明治7年(1874年)4月13日

 幕末から明治時代の日本の佐賀藩士で、政治家です。幼名は恒太郎・又蔵、諱は胤雄・胤風、号は南白です。

 朝臣としての正式な名のりは、平胤雄(たいら の たねお)で、「維新の十傑」、「佐賀の七賢人」の一人に挙げられています。

 文久2年(1862年)に脱藩し、京都で活動し、長州藩士の桂小五郎(木戸孝允)や公家の姉小路公知らとの接触があります。

 15代将軍・徳川慶喜が大政奉還を行って、幕府が消滅した慶応3年(1867年)に、郡目付となりました。

 薩摩藩と長州藩は、公家の岩倉具視と結び、慶応3年12月9日(1868年1月3日)王政復古の大号令を行い、新政府が誕生しますと、佐賀藩も参加し、新平は副島種臣とともに京都に派遣されます。

 戊辰戦争で、江藤は東征大総督府軍監に任命され、土佐藩士の小笠原唯八とともに江戸へ偵察に向かいます。薩摩藩の西郷隆盛と幕臣の勝海舟の会談で江戸開城が決定しますと、江藤は城内の文書類を接収しました。

 京都へ戻り、大木喬任と連名で岩倉具視に対して江戸を東京と改称すべきこと(東京奠都)を献言しました。

 旧幕臣らを中心とする彰義隊が活動していた問題では大村益次郎らとともに討伐を主張し、軍監として上野戦争で戦い、彰義隊勢を寛永寺周辺に追い詰め、さらに佐賀藩のアームストロング砲を遠方射撃する戦術などにより彰義隊は瓦解しました。

 江藤の献言が通って明治天皇が行幸して、江戸は東京と改称されました。

 明治6年(1873年)には、朝鮮出兵を巡る征韓論問題から発展した政変で西郷隆盛・板垣退助等と共に下野(表舞台からおりる)しました。

 佐賀の乱で、江藤は急設された佐賀裁判所で司法省時代の部下であった河野敏鎌によって裁かれ、処刑されました。

 

◆ 【きょうの人】 バックナンバー

 歴史上で活躍したり、仏教など宗教関係の人であったり、ジャンルはいろいろですが、彼等から、学ぶところが多々ありますので、それをご紹介します。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b57a13cf0fc1c961c4f6eb02c2b84c9f

◆ 【今日は何の日】は、毎日発信しています。

 一年365日、毎日が何かの日です。 季節を表す日もあります。 地方地方の伝統的な行事やお祭りなどもあります。 誰かの誕生日かも知れません。 歴史上の出来事もあります。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b980872ee9528cb93272bed4dbeb5281

◆ 【経営コンサルタントのひとり言】

 経営コンサルタントのプロや準備中の人だけではなく、経営者・管理職などにも読んでいただける二兎を追うコンテンツで毎日つぶやいています。 

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/a0db9e97e26ce845dec545bcc5fabd4e

【 注 】

 【きょうの人】は、【Wikipedia】・当該関連サイトを参照・引用して作成しています。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■【きょうの人】 0513 ■ 松平 定信 没  江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の孫、寛政の改革

2023-05-13 06:33:00 | 【話材】 きょうの人05月

 

  【きょうの人】 0513 ■ 松平 定信 没  江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の孫、寛政の改革

 

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。

 

■ 松平 定信 没  江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の孫、寛政の改革

 まつだいら さだのぶ
 宝暦8年12月27日(1759年1月25日)-文政12年5月13日(1829年6月14日)

 江戸時代中期の大名、陸奥国白河藩3代藩主で、老中を務めました。江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の孫に当たります。

 1787年から1793年まで寛政の改革を行いました。定信は、田沼の政策の経済政策をことごとく覆したとしばし言われます。

 天明の大飢饉における藩政の建て直しの手腕を認められた定信は、天明6年(1786年)に家治が死去して家斉の代となりました。田沼意次が失脚した後の、天明7年(1787年)、徳川御三家の推挙を受けて、少年期の第11代将軍・徳川家斉のもとで老中首座・将軍輔佐となります。

 田沼意次の政治により、武士の世界は金とコネによる出世が跳梁しており、農村では貧富の差が激しくなり没落する貧農が続出していました。

 天明の打ちこわしを期に、幕閣から旧田沼系を一掃粛清し、祖父・吉宗の享保の改革を手本に寛政の改革を行い、幕政再建を目指しました。

 幕府財政の再建の為に、大胆な財政緊縮政策を行いました。田沼時代の運上金、冥加金の上納を引き換えとして特権を与えるなどといった商業資本重視の政策は、下層への搾取を生み、富商・富農の誕生を促進させたと判断した対応でした。

 一方で、農村で大量離村が発生したりして苦慮しました。対策として倹約や風紀粛清に尽力しました。福祉政策として、飢餓に備えて各藩で「社倉」「義倉」に穀物を備蓄するよう命じたりもしています。

 教育政策では、朱子学による学問吟味=官吏登用試験を行うことによって、幕府に忠実な封建官僚群を育成しようとしました。

 ヨーロッパの情勢が変化する中、定信は消極的開国政策を示し、ロシアなどの対外政策を実施しました。

 松平定信の改革は、一定の成果をあげましたが、その厳粛な厳しい政治に対する反発から失脚しました。

 

◆ 【きょうの人】 バックナンバー

 歴史上で活躍したり、仏教など宗教関係の人であったり、ジャンルはいろいろですが、彼等から、学ぶところが多々ありますので、それをご紹介します。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b57a13cf0fc1c961c4f6eb02c2b84c9f

◆ 【今日は何の日】は、毎日発信しています。

 一年365日、毎日が何かの日です。 季節を表す日もあります。 地方地方の伝統的な行事やお祭りなどもあります。 誰かの誕生日かも知れません。 歴史上の出来事もあります。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b980872ee9528cb93272bed4dbeb5281

◆ 【経営コンサルタントのひとり言】

 経営コンサルタントのプロや準備中の人だけではなく、経営者・管理職などにも読んでいただける二兎を追うコンテンツで毎日つぶやいています。 

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/a0db9e97e26ce845dec545bcc5fabd4e

【 注 】

 【きょうの人】は、【Wikipedia】・当該関連サイトを参照・引用して作成しています。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■【きょうの人】 0512 ■ 武者小路 実篤 小説家・詩人・劇作家であり、独特な画風の画家

2023-05-12 06:33:00 | 【話材】 きょうの人05月

 

  【きょうの人】 0512 ■ 武者小路 実篤 小説家・詩人・劇作家であり、独特な画風の画家

 

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。

 

■ 武者小路 実篤 小説家・詩人・劇作家であり、独特な画風の画家

 むしゃのこうじ さねあつ
 1885年(明治18年)5月12日 - 1976年(昭和51年)4月9日

 日本の小説家・詩人・劇作家であり、独特な画風の画家でもあります。貴族院勅選議員も務めました。文化勲章受章者、日本芸術院会員、贈従三位受勲者(没時叙位)などでもあります。

 姓の武者小路は、本来「むしゃのこうじ」と読みますが、後に「むしゃこうじ」に読み方を変更しています。しかし、一般には「むしゃのこうじ」で普及していました、本人も誤りだと糺すことはなかったようです。仲間からは「武者」(ムシャ)の愛称で呼ばれました。

 実篤は、白樺派の思想代名詞的存在で、理想郷の建設に代表される理想主義的・空想社会主義的行動には現実離れしているという批判もつきまといました。

 気紛れで始めたことを簡単に投げ出すという無責任とも取れる言動も批判されることがありました。

 ただし、その作品は必ずしも彼の思想的背景に依るものではなく、それゆえ現代に至るまで広く一般に読まれているのです。

 一般には『友情』『愛と死』などの代表作を生んだ、近代日本を代表する作家の一人としての知名度の方が遥かに高いですので、人気が持続していると言えます。

 

◆ 【きょうの人】 バックナンバー

 歴史上で活躍したり、仏教など宗教関係の人であったり、ジャンルはいろいろですが、彼等から、学ぶところが多々ありますので、それをご紹介します。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b57a13cf0fc1c961c4f6eb02c2b84c9f

◆ 【今日は何の日】は、毎日発信しています。

 一年365日、毎日が何かの日です。 季節を表す日もあります。 地方地方の伝統的な行事やお祭りなどもあります。 誰かの誕生日かも知れません。 歴史上の出来事もあります。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b980872ee9528cb93272bed4dbeb5281

◆ 【経営コンサルタントのひとり言】

 経営コンサルタントのプロや準備中の人だけではなく、経営者・管理職などにも読んでいただける二兎を追うコンテンツで毎日つぶやいています。 

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/a0db9e97e26ce845dec545bcc5fabd4e

【 注 】

 【きょうの人】は、【Wikipedia】・当該関連サイトを参照・引用して作成しています。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■【きょうの人】 0511 ■ 萩原 朔太郎 大正時代に近代詩の息吹

2023-05-11 06:33:00 | 【話材】 きょうの人05月

 

  【きょうの人】 0511 ■ 萩原 朔太郎 大正時代に近代詩の息吹

 

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。

 

■ 萩原 朔太郎 大正時代に近代詩の息吹

 はぎわら さくたろう
 1886年(明治19年)11月1日 - 1942年(昭和17年)5月11日)

 日本の詩人で、大正時代に近代詩の新しい地平を拓き「日本近代詩の父」と称されます。

 群馬県(現・千代田町)に、開業医の父・密蔵と母・ケイの長子として生まれました。名前の朔太郎は、長男で朔日(ついたち)生まれであることから、命名されました。

 1913年(大正2年)に、北原白秋の雑誌『朱欒』に初めて「みちゆき」ほか五編の詩を発表、詩人として出発しました。そこで室生犀星と知り合い、室生とは生涯の友となったのです。一期一会、出合は、大切ですね。

 1923年(大正12年)に詩集『青猫』、『蝶を夢む』を刊行し、谷崎潤一郎に会う機会を得ました。

 上毛新聞主宰の「萩原朔太郎歓迎座談会」に出席し帰郷、「透谷会」の創立発起人となり、「透谷文学賞」が設立されますと、島崎藤村や武者小路実篤等と共に選考委員となります。この頃からおびただしい量の執筆・座談会・講演等をこなすようになります。

 1938年(昭和13年)に「新日本文化の会」の機関紙『新日本』を創刊、その年、『日本への回帰』を発表しました。この中で「日本主義」を主張し、一部から国粋主義者と批判されたりもします。

 しかし、やがて身体に変調を引き起こし、他界することとなりました。

 

◆ 【きょうの人】 バックナンバー

 歴史上で活躍したり、仏教など宗教関係の人であったり、ジャンルはいろいろですが、彼等から、学ぶところが多々ありますので、それをご紹介します。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b57a13cf0fc1c961c4f6eb02c2b84c9f

◆ 【今日は何の日】は、毎日発信しています。

 一年365日、毎日が何かの日です。 季節を表す日もあります。 地方地方の伝統的な行事やお祭りなどもあります。 誰かの誕生日かも知れません。 歴史上の出来事もあります。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b980872ee9528cb93272bed4dbeb5281

◆ 【経営コンサルタントのひとり言】

 経営コンサルタントのプロや準備中の人だけではなく、経営者・管理職などにも読んでいただける二兎を追うコンテンツで毎日つぶやいています。 

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/a0db9e97e26ce845dec545bcc5fabd4e

【 注 】

 【きょうの人】は、【Wikipedia】・当該関連サイトを参照・引用して作成しています。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■【きょうの人】 0510 ■ 葛飾 北斎 没 江戸時代後期の浮世絵師

2023-05-10 06:33:00 | 【話材】 きょうの人05月

 

  【きょうの人】 0510 ■ 葛飾 北斎 没 江戸時代後期の浮世絵師

 

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。

 

■ 葛飾 北斎 没 江戸時代後期の浮世絵師

 かつしか ほくさい、葛飾 北齋
 宝暦10年9月23日〈1760年10月31日〉? - 嘉永2年4月18日〈1849年5月10日〉

 江戸時代後期の浮世絵師で、化政文化を代表する一人といえます。

 代表作に『富嶽三十六景』や『北斎漫画』があり、世界的にも著名な画家であることは周知の通りです。

 森羅万象を描き、生涯に3万点を超える作品を発表したと言われますので、超人的な面もあると言えます。

 若い時から意欲的であり、版画のほか、肉筆浮世絵も傑出した作品を残しています。

 北斎は、絵師としての地位は「富嶽三十六景」の発表により、不動のものとなったといえます。

 北斎は、浮世絵で高い芸術性を表しましたが、大衆的な『北斎漫画』の中にも彼の卓越した描写力が見えます。さらに、読本(よみほん)・挿絵芸術に新機軸を見出したことや、『北斎漫画』を始めとする絵本を多数発表したことは、意外と知られていません。

 毛筆による形態描出に敏腕を奮ったことなどは、絵画技術の普及や庶民教育にも益するところが大であると、専門家は表しています。

 葛飾派の祖であることはいうまでもありませんが、ゴッホなどの印象派画壇の芸術家を始め、多くの芸術面でも大きな影響を与えています。

 ありとあらゆるものを描き尽くそうとした北斎は、晩年、銅版画やガラス絵も研究し、自分で試みたといいます。

 また、油絵に対しても関心が強かったようですが、遂に果たせなかったのです。

 1999年には、アメリカ合衆国の雑誌である『ライフ』の企画「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」で、日本人として唯一86位にランクインしています。

 その功績の大きさは、計り知れないということでしょうか。

 

葛飾北斎 富岳26 程ヶ谷(ほどがや)

木版多色刷 天保元-天保3年(1830-32)頃

 

 程ヶ谷は、現在の横浜市保土ヶ谷区あたりを指します。この木版は、品野坂付近が題材で、このあたりは松並木が見事だったようです。

 北斎らしい、松の枝振りの表現が高く評価される富岳の一つです。

 前面の人物や中央の馬子が、枝の間から富士山を眺めている描写は、なんともいえませんね。

 この富岳は、南側(画面左側)の斜面の雪が解けていていることから晩春の風景であると言われています。

出処: センペンバンカ
解説: https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/238296?msclkid=3d59c39ccfe211ec9620ea76ad4d5c2bを参照

 

◆ 【きょうの人】 バックナンバー

 歴史上で活躍したり、仏教など宗教関係の人であったり、ジャンルはいろいろですが、彼等から、学ぶところが多々ありますので、それをご紹介します。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b57a13cf0fc1c961c4f6eb02c2b84c9f

◆ 【今日は何の日】は、毎日発信しています。

 一年365日、毎日が何かの日です。 季節を表す日もあります。 地方地方の伝統的な行事やお祭りなどもあります。 誰かの誕生日かも知れません。 歴史上の出来事もあります。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b980872ee9528cb93272bed4dbeb5281

◆ 【経営コンサルタントのひとり言】

 経営コンサルタントのプロや準備中の人だけではなく、経営者・管理職などにも読んでいただける二兎を追うコンテンツで毎日つぶやいています。 

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/a0db9e97e26ce845dec545bcc5fabd4e

【 注 】

 【きょうの人】は、【Wikipedia】・当該関連サイトを参照・引用して作成しています。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■【きょうの人】 0509 ■ 澤 太郎左衛門 没 幕末から明治期の幕臣・海軍教官

2023-05-09 06:33:00 | 【話材】 きょうの人05月

 

  【きょうの人】 0509 ■ 澤 太郎左衛門 没 幕末から明治期の幕臣・海軍教官

 

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。

 

■ 澤 太郎左衛門 没 幕末から明治期の幕臣・海軍教官

 さわ たろうざえもん
 天保5年6月4日(1834年7月10日) - 明治31年(1898年)5月9日

 幕末から明治期の幕臣で、技術者、海軍教官でもありました。名は貞説、幼名はえい太郎(鍈太郎)です。

 箱館戦争時に成立した旧幕府軍政権(蝦夷共和国)の開拓奉行です。海軍造兵総監・技術中将の澤鑑之丞は,彼の子息です。

 日本海軍において海上砲の操砲訓練を行ったのは、澤が最初です。

 榎本武揚が、オランダ渡航中に著した『航海日誌』は、榎本がセントヘレナ島で海に投げ捨てようとしたところを澤が惜しんで預かりました。

 その時に判断に任せて行うことは、時として大きな損失に繋がることがあります。茶話の陰で貴重な記録が残されたのです。

 

◆ 【きょうの人】 バックナンバー

 歴史上で活躍したり、仏教など宗教関係の人であったり、ジャンルはいろいろですが、彼等から、学ぶところが多々ありますので、それをご紹介します。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b57a13cf0fc1c961c4f6eb02c2b84c9f

◆ 【今日は何の日】は、毎日発信しています。

 一年365日、毎日が何かの日です。 季節を表す日もあります。 地方地方の伝統的な行事やお祭りなどもあります。 誰かの誕生日かも知れません。 歴史上の出来事もあります。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b980872ee9528cb93272bed4dbeb5281

◆ 【経営コンサルタントのひとり言】

 経営コンサルタントのプロや準備中の人だけではなく、経営者・管理職などにも読んでいただける二兎を追うコンテンツで毎日つぶやいています。 

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/a0db9e97e26ce845dec545bcc5fabd4e

【 注 】

 【きょうの人】は、【Wikipedia】・当該関連サイトを参照・引用して作成しています。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■【きょうの人】 0508 ■ 鎮西上人 生誕 平安・鎌倉時代の浄土宗の僧

2023-05-08 06:30:24 | 【話材】 きょうの人05月

 

  【きょうの人】 0508 ■ 鎮西上人 生誕 平安・鎌倉時代の浄土宗の僧 ■ 太田哲三 公認会計士・コンサルタントの草分け

 

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。

 

■ 鎮西上人 生誕 平安・鎌倉時代の浄土宗の僧

 ちんぜいしょうにん
 別名 弁長聖光(べんちょうせいこう)
 応保2年5月6日(1162年6月20日) - 嘉禎4年2月29日(1238年3月16日)

 平安時代後期から鎌倉時代にかけての浄土宗の僧。鎮西義の祖。父は古川則茂。字は弁阿(べんな)。房号は聖光房(【Wikipedia】)

 14歳で出家し、比叡山に登り、短大集を学び、秘奥を究めたと言われています。

 後に、故郷の筑前に帰り、油山の学頭職に補せられますが、弟の死に遭遇し、無常を感じて建久8年に上洛しました。

 そこで法然に謁(まみ)え、浄土念仏の要道を聴き、専心法然に支持して浄土門に期すことになりました。

 元久元年、浄土宗の正統を伝道し、鎮西に帰り、善導寺を建立しました。


 人の「死」というのは、人間の生き方を変える契機となるほどのことなのですね。

 私事ですが、中学二年の時に祖母を亡くしました。祖母からは、「偉くなっても稲穂を忘れてはいけないよ」という言葉を始め、いろいろと教えられました。

 祖母の死に遭遇したときに、いろいろな教えをもとに生きていくということを墓前で誓ったことを鮮明に記憶しています。
 

■ 太田哲三 公認会計士・コンサルタントの草分け

 おおた てつぞう
 1889年(明治22年)5月8日-1970年(昭和45年)7月4日

 日本を代表する会計学者、公認会計士
 第二次大戦で荒廃してしまった経済や国土から、復興を果たすために、GHQ(米軍総司令部)のアドバイスを受け、日本政府は、アメリカの公認会計士のミッションを派遣しました。その時に、「直弟子」といえる黒澤清先生(当時横浜国立大学教授)を推薦しました。
 黒澤ミッション帰国報告を受け、太田先生は、公認会計士制度を構築すると共に、日本にも、アメリカで活躍している「経営コンサルタント」の制度が必要と政府に進言しました。並行して、「経営士」というコンサルタントの国家資格制度確立という動きを、日本経営士協会という日本で最初の経営コンサルタント資格付与団体として開設しました。
 伝聞によりますと、太田先生の影響力の大きい公認会計士制度の母体でありました団体の管轄官庁と、「コンサルタント」という職業の性格から、本来管轄すべき省庁との間で、管轄争いになってしまったそうです。
 その結果、経営士の国家資格化が延び延びとなり、最終的には、後者が中小企業診断士という、これまでに俎上に上がっていなかった資格を、他の国家資格のような職業独占権の付与なしでスタートさせることにしたそうです。
 太田先生をはじめ、多くの関係者が二つの資格を統合した、職業独占のある国家資格にする努力を続けました。しかし、省庁間の既得権争いは、面子の問題も絡み、難しかったようです。今日、経営コンサルタント資格が、経営士と中小企業診断士という二本立てになってしまったのは、このためであるそうです。

 太田先生は、商学博士(一橋大学)で、一橋大学名誉教授、中央大学教授等で教育に力を入れると共に、公認会計士・経営士の資格制度の定着にも努力されました。監査法人太田哲三事務所(EY新日本有限責任監査法人の前身)の創設者で、日本公認会計士協会の初代会長、日本経営士協会の名誉会長を務めました。
 実業界では、長浜ゴム工業(のちの三菱樹脂)社長を務めたり、三菱化成(三菱ケミカルホールディングスの前身)監査役を務めたりされました。従三位・勲二等瑞宝章。

 

◆ 【きょうの人】 バックナンバー

 歴史上で活躍したり、仏教など宗教関係の人であったり、ジャンルはいろいろですが、彼等から、学ぶところが多々ありますので、それをご紹介します。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b57a13cf0fc1c961c4f6eb02c2b84c9f

◆ 【今日は何の日】は、毎日発信しています。

 一年365日、毎日が何かの日です。 季節を表す日もあります。 地方地方の伝統的な行事やお祭りなどもあります。 誰かの誕生日かも知れません。 歴史上の出来事もあります。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b980872ee9528cb93272bed4dbeb5281

◆ 【経営コンサルタントのひとり言】

 経営コンサルタントのプロや準備中の人だけではなく、経営者・管理職などにも読んでいただける二兎を追うコンテンツで毎日つぶやいています。 

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/a0db9e97e26ce845dec545bcc5fabd4e

【 注 】

 【きょうの人】は、【Wikipedia】・当該関連サイトを参照・引用して作成しています。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■【きょうの人】 0507 ■ 足利義満没 金閣寺の建立だけではありません

2023-05-07 06:33:00 | 【話材】 きょうの人05月

  【きょうの人】 0507 ■ 足利義満没 金閣寺の建立だけではありません

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。

■ 足利義満没 金閣寺の建立だけではありません

 足利義満(あしかが よしみつ)
 正平13年/延文3年(1358年)8月22日(新暦:9月25日) - 応永15年(1408年)5月6日


 室町幕府第3代将軍(在職1368年 - 1394年)で、金閣寺を建立した人として歴史の時間にも学ぶ人が多いのではないでしょうか。父は第2代将軍・足利義詮で、、母は側室の紀良子といわれています。 

 南北朝の合一を果たし、有力守護大名の勢力を押さえて幕府権力を確立させました。室町幕府の政治、経済、文化の最盛期を築いたといえます。
 その権力を活かして、鹿苑寺(金閣)を建立したのですが、北山文化を開花させた人と言えます。
 邸宅を、京都北小路室町に構え、「室町殿」とも呼ばれたことから「室町幕府」という名称が定着しました。

 明徳2年(1391年)、山名氏の内紛に介入し、11か国の守護を兼ねて「六分一殿」と称された有力守護大名・山名氏清を挑発して挙兵させ、同年12月に討伐するという、いわゆる「明徳の乱」が起こりました。
 持明院統と大覚寺統が交互に即位する「両統迭立」や諸国の国衙領を全て大覚寺統の所有とするなどの和平案が功を奏し、南朝後亀山が保持していた三種の神器が北朝の後小松天皇に戻され、南北朝合一を実現し、58年間にわたる朝廷の分裂を終結させました。いわゆる「明徳の和約」です。

【 コメント 】

 半世紀以上にわたる朝廷の南北分裂を収集したとはいえ、仲介に当たらせた大内義弘の功績が大といえます。

 結果も、本当にこれで良かったのか、楠木正成が存命であったらどうだったのか、義満の力がどの程度であったのか、研究者により評価は異なるようです。

若狹晃司先生による追補】

足利義満は「勘合」(通行証)を用いた明との貿易で足利幕府財政の立て直しに成功。明から冊封を受けて貿易の道を切り開いた(朝貢貿易)。その際、天皇陛下よりも自分が上として「日本国王」と明に申し出ている。経済的には繁栄したが日本国王という観念がその後問題を起こした。

それは赤穂浪士事件。
足利幕府時代からの武士である「吉良家」は、朝廷からの勅使下向を接待をする作法について「浅野家」に対し指導をしたが、座席の上座は「幕府側」で下座が「勅使(朝廷)側」だと伝えた。2回の接待で2回とも指導。
足利幕府流で言えば日本の王は幕府。しかし、赤穂藩は山鹿素行(尊王思想)に教育を受けていた為、上座は勅使側でなければならない。よって赤穂藩は「激怒」していた。それが原因で赤穂藩士が殿に言い寄って松の廊下事件になった。しかし、殿は基地外ではなく吉良の頭を刀で切ったわけではない。ただしやり過ぎだった。その後かなり時間をかけて(100年後)上座が勅使側、下座が幕府側になった。
・・・明治維新は江戸時代から既に始まっていた・・・
歴史は繋がっている。
私の郷里は岡山。赤穂は隣のようなもの(応援したくなります)。

◆ 【きょうの人】 バックナンバー

 歴史上で活躍したり、仏教など宗教関係の人であったり、ジャンルはいろいろですが、彼等から、学ぶところが多々ありますので、それをご紹介します。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b57a13cf0fc1c961c4f6eb02c2b84c9f

◆ 【今日は何の日】は、毎日発信しています。

 一年365日、毎日が何かの日です。 季節を表す日もあります。 地方地方の伝統的な行事やお祭りなどもあります。 誰かの誕生日かも知れません。 歴史上の出来事もあります。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b980872ee9528cb93272bed4dbeb5281

◆ 【経営コンサルタントのひとり言】

 経営コンサルタントのプロや準備中の人だけではなく、経営者・管理職などにも読んでいただける二兎を追うコンテンツで毎日つぶやいています。 

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/a0db9e97e26ce845dec545bcc5fabd4e

【 注 】

 【きょうの人】は、【Wikipedia】・当該関連サイトを参照・引用して作成しています。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■【きょうの人】 0506 足利義満 金閣寺を建立した以外は・・・

2023-05-06 06:33:00 | 【話材】 きょうの人05月

 

  【きょうの人】 0506 足利義満 金閣寺を建立した以外は・・・

 

 本日、ゆかりの人をご紹介します。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取っていただけると幸いです。

 

■ 足利義満 金閣寺を建立した以外は・・・

 

 あしかが よしみつ
 正平13年/延文3年(1358年)8月22日(新暦:9月25日) - 応永15年(1408年)5月6日

 

 室町幕府第3代将軍(在職1368年 - 1394年)で、金閣寺を建立した人として歴史の時間にも学ぶ人が多いのではないでしょうか。父は第2代将軍・足利義詮で、、母は側室の紀良子といわれています。 

 南北朝の合一を果たし、有力守護大名の勢力を押さえて幕府権力を確立させました。室町幕府の政治、経済、文化の最盛期を築いたといえます。

 その権力を活かして、鹿苑寺(金閣)を建立したのですが、北山文化を開花させた人と言えます。

 邸宅を、京都北小路室町に構え、「室町殿」とも呼ばれたことから「室町幕府」という名称が定着しました。

 

 

◆ バックナンバー

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b57a13cf0fc1c961c4f6eb02c2b84c9f

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■【きょうの人】 0505 ■ 鑑真 唐招提寺ゆかりの律宗の開祖 ■ 専誉 真言宗豊山派の第一祖 ■ 日朗 日蓮を師として法を学ぶ

2023-05-05 06:33:00 | 【話材】 きょうの人05月

 

  【きょうの人】 0505 ■ 鑑真 唐招提寺ゆかりの律宗の開祖 ■ 専誉 真言宗豊山派の第一祖 ■ 日朗 日蓮を師として法を学ぶ

 

 

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。

 

■ 日朗 日蓮を師として法を学ぶ

 にちろう
 寛元3年4月8日(1245年5月5日)- 元応2年1月21日(1320年3月1日)

 鎌倉時代の日蓮宗・法華宗の僧で、日蓮六老僧の一人です。号は筑後房、大国阿闍梨とも称します。日朗門流・池上門流・比企谷門流の祖です。下総国の出身、父は平賀有国です。

 1261年(文応2年)日蓮を師として法を学び、1271年(文永8年)日蓮の流罪の際に、土牢に押込となりました。

 1274年(文永11年)佐渡に流罪となっていた日蓮を8回も訪ね、赦免状を携えて佐渡に渡っています。但し、これは伝承で幕府の公文書である赦免状を流罪者の弟子に託すことはあり得ず、誤伝である可能性が高いといわれています。

 日蓮滅後に、久遠寺の墓所にあった日蓮所持の釈迦立像を、日蓮の遺言に背き勝手に持ち去っています。

 1282年(弘安5年)池上宗仲の協力のもと、池上本門寺の基礎を築きました。1309年(延慶2年)千葉胤貞の妻より、土地の寄進を受け、本土寺を建立しました。鎌倉光則寺は、1274年に、日朗を開祖として創建されました。

 1320年(元応2年)安国論寺にて荼毘に付され、法性寺に葬られました。


■ 専誉 真言宗豊山派の第一祖

 せんよ
 享禄3年(1530年)- 慶長9年5月5日(1604年6月2日)

 室町時代の僧で、「専誉僧正(せんよそうじょう)」の名で知られ、真言宗豊山派の第一祖です。

 和泉国大鳥郡(現・大阪府堺市)において、石垣氏に生まれ、天文11年(1542年)に出家し、専誉と称するようになりました。

 天正12年(1584年)に根来寺学頭に就任し、羽柴秀吉による根来焼き討ち後、高野山・醍醐寺・和泉国分寺に移りました。その後、豊臣秀長に招聘されて長谷寺に入山し、慶長9年(1604年)5月5日、75歳で入寂しました。



■ 鑑真 唐招提寺ゆかりの律宗の開祖

 がんじん、旧字体: 鑑眞
 688年〈持統天皇2年〉- 763年6月25日〈天平宝字7年5月6日〉

 奈良時代の帰化僧で、日本における律宗の開祖。俗姓は淳于です。

 唐の揚州江陽県の生まれ、14歳で智満について得度し、大雲寺に住むことになりました。

 18歳で道岸から菩薩戒を受け、20歳で長安に入り、翌年、弘景について登壇受具し律宗・天台宗を学びました。

 鑑真が学んだ律宗とは、仏教徒、とりわけ僧尼が遵守すべき戒律を伝え研究する宗派です。

 鑑真は四分律に基づく南山律宗の継承者であり、4万人以上の人々に授戒を行ったとされています。

 揚州の大明寺の住職であった742年、日本から唐に渡った僧・栄叡、普照らから戒律を日本へ伝えるよう懇請されました。

 鑑真は、荒天などで六回の渡海を試み、ようやく日本にたどり着きました。

 最初の渡海は、743年夏のことで、このときは、渡海を嫌った弟子が、港の役人へ「日本僧は実は海賊だ」と偽の密告をしたため、日本僧は追放されました。その後は、荒天などに阻まれました。

 天平勝宝5年12月26日(754年1月23日)、ようやく大宰府に到着しました。

 鑑真は大宰府観世音寺に隣接する戒壇院で初の授戒を行い、天平勝宝6年2月4日に、平城京に到着して聖武上皇以下の歓待を受けました。

 孝謙天皇の勅により、戒壇の設立と授戒について全面的に一任され、東大寺に住することとなりました。

 聖武天皇より伝法大法師位を賜り、常設の東大寺戒壇院が、大仏殿のそばに建立されました。

 その後、天平宝字5年には日本の東西で登壇授戒が可能となるよう、大宰府観世音寺および下野国薬師寺に戒壇が設置され、戒律制度が急速に整備されていくことになりました。

 その後、伽藍を建立し、唐律招提案を賜い、日本の戒律宗の祖師となりました。76歳でこの世を去りました。

 

【経営コンサルタントの独り言】

 奈良の唐招提寺には、何度か行っていますが、心洗われるお寺さんの一つですね。
 中学の修学旅行では、校倉造りだけが印象的でした。
 その後に訪れた時に、鑑真像を間近に見ることができました。
 昔は、今のようにお堂に入り、ガラス越しではなく、間近で見られたのです。
 また、お詣りをしたいと考えています。      

 

 

 

◆ 【きょうの人】 バックナンバー

 歴史上で活躍したり、仏教など宗教関係の人であったり、ジャンルはいろいろですが、彼等から、学ぶところが多々ありますので、それをご紹介します。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b57a13cf0fc1c961c4f6eb02c2b84c9f

◆ 【今日は何の日】は、毎日発信しています。

 一年365日、毎日が何かの日です。 季節を表す日もあります。 地方地方の伝統的な行事やお祭りなどもあります。 誰かの誕生日かも知れません。 歴史上の出来事もあります。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b980872ee9528cb93272bed4dbeb5281

◆ 【経営コンサルタントのひとり言】

 経営コンサルタントのプロや準備中の人だけではなく、経営者・管理職などにも読んでいただける二兎を追うコンテンツで毎日つぶやいています。 

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/a0db9e97e26ce845dec545bcc5fabd4e

【 注 】

 【きょうの人】は、【Wikipedia】・当該関連サイトを参照・引用して作成しています。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■【きょうの人】 0504 ■ 池 大雅 江戸時代の南画を中心として文人画家 ■ 専誉 真言宗豊山派の第一祖​​​​​​

2023-05-04 06:33:00 | 【話材】 きょうの人05月

 

  【きょうの人】 0504 ■ 池 大雅 江戸時代の南画を中心として文人画家 ■ 専誉 真言宗豊山派の第一祖

 

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。

 

■ 池 大雅 江戸時代の南画を中心として文人画家

 いけの たいが
 享保8年5月4日(1723年6月6日)- 安永5年4月13日(1776年5月30日)
 諱は勤(きん)、無名(ありな)、字は公敏(こうびん)、貨成(かせい)

 日本の江戸時代の南画を中心とした文人画家であり、書家でもあります。

 雅号は、数多く名乗り、大雅堂(たいがどう)、待賈堂(たいかどう)、三岳道者(さんがくどうしゃ)、霞樵(かしょう)などがよく知られています。

 与謝蕪村とともに、日本の南画(文人画)の大成者といわれます。

 享保8年(1723年)、京都銀座役人の下役の子として生まれ、父を早くに亡くし経済的に苦しい中にもかかわりませず、6歳で素読を始め、7歳から本格的に唐様の書を学び始め、神童ともたたえられました。

 柳里恭(柳沢淇園)に才能を見出されました。中国の故事や名所を題材とした大画面の屏風、日本の風景を軽妙洒脱な筆致で描いた作品など、作風は変化に富んでいます。

 室町絵画や琳派、更には西洋画の表現を取り入れ、独自の画風を確立しました。

 大雅は、董其昌の「万巻の書を読み万里の路を行く」という文人画の方法論に敬重し、旅と登山を好んだようです。旅と登山の体験は、大雅の絵の特色である広々とした絵画展開と、リズム感のある描線となって生かされています。


■ 専誉 真言宗豊山派の第一祖

 せんよ
 享禄3年(1530年)- 慶長9年5月5日(1604年6月2日)

 室町時代の僧で、「専誉僧正(せんよそうじょう)」の名で知られ、真言宗豊山派の第一祖です。

 和泉国大鳥郡(現・大阪府堺市)において、石垣氏に生まれ、天文11年(1542年)に出家し、専誉と称するようになりました。

 天正12年(1584年)に根来寺学頭に就任し、羽柴秀吉による根来焼き討ち後、高野山・醍醐寺・和泉国分寺に移りました。その後、豊臣秀長に招聘されて長谷寺に入山し、慶長9年(1604年)5月5日、75歳で入寂しました。

 

◆ 【きょうの人】 バックナンバー

 歴史上で活躍したり、仏教など宗教関係の人であったり、ジャンルはいろいろですが、彼等から、学ぶところが多々ありますので、それをご紹介します。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b57a13cf0fc1c961c4f6eb02c2b84c9f

◆ 【今日は何の日】は、毎日発信しています。

 一年365日、毎日が何かの日です。 季節を表す日もあります。 地方地方の伝統的な行事やお祭りなどもあります。 誰かの誕生日かも知れません。 歴史上の出来事もあります。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b980872ee9528cb93272bed4dbeb5281

◆ 【経営コンサルタントのひとり言】

 経営コンサルタントのプロや準備中の人だけではなく、経営者・管理職などにも読んでいただける二兎を追うコンテンツで毎日つぶやいています。 

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/a0db9e97e26ce845dec545bcc5fabd4e

【 注 】

 【きょうの人】は、【Wikipedia】・当該関連サイトを参照・引用して作成しています。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■【きょうの人】 0503 微妙大師授翁宗弼 後醍醐天皇との繋がり

2023-05-03 06:33:00 | 【話材】 きょうの人05月

 

  【きょうの人】 0503 微妙大師授翁宗弼 後醍醐天皇との繋がり

 

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。

 

■ 微妙大師授翁宗弼 後醍醐天皇との繋がり

 

 びみょうだいし じゅおうそうひつ
 永仁4年(1296年)- 康暦2年/天授6年3月28日(1380年5月3日)

 鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての臨済宗の僧で、諱は、後醍醐天皇から授かった宗弼、39歳で出家し、字は授翁です。諡号は、円鑑国師、微妙大師です。父は南朝忠臣藤原宣房で、宗弼は、万里小路藤房と同一人物とする説もあります。

 建武の新政の際には、後醍醐天皇を諫めたが受け入れられず、ひそかに洛北岩倉で不二大徳に支持して得度しました。20年間隠遁した後、京都妙心寺の関山慧玄に参禅して、その法を継ぎ、妙心寺2世となりました。


 宗弼は、客観的なものの見方をすることができる人だったようで、後醍醐天皇による建武の新政における考え方に危機感を持ちました。天皇を諫めましたが、聴く耳を持たなかったようで、足利尊氏が離反するなど、人心掌握力にも欠けていたようです。

 ビジネスパーソンが、変革など、何か、ことを起こそうというときには、周到なる準備が必要です。また、周囲の人間をキチンと掌握していませんと、離反者が出てしまいます。一人離反者が出ますと、離反する人が続出してしまう懸念がありますので、離反者が出ないように、心する必要があります。

 起こそうとするコンセプトは何かを、明確にし、それを関係者に周知徹底する必要があります。

 

【妙心寺サイト】

 正法山妙心寺は臨済宗妙心寺派の本山です。

 インドの達磨大師さまから中国の臨済禅師さまを経て、妙心寺開山無相大師さまへと受け嗣がれてきた一流の禅を宗旨・教義としています。

 1337年、95代の花園法皇さまの勅願によって創建された妙心寺の開山、無相大師さまの法流は四派に分かれ、全国3400ヶ寺に広がっています。

 お釈迦さまを大恩教主と尊崇し、その教えを心にいただく禅の安心を求めます。

 開山無相大師さまの最期の教え「請う、其の本を務めよ」と開基花園法皇さまの「報恩謝徳」の聖旨による仏法興隆を実践します。

 自身仏を信じて坐禅に励み、足下を照顧しながら生かされている自分を感謝して、社会を心の花園と念じ和やかな人生を目指します。

 

◆ 【きょうの人】 バックナンバー

 歴史上で活躍したり、仏教など宗教関係の人であったり、ジャンルはいろいろですが、彼等から、学ぶところが多々ありますので、それをご紹介します。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b57a13cf0fc1c961c4f6eb02c2b84c9f

◆ 【今日は何の日】は、毎日発信しています。

 一年365日、毎日が何かの日です。 季節を表す日もあります。 地方地方の伝統的な行事やお祭りなどもあります。 誰かの誕生日かも知れません。 歴史上の出来事もあります。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b980872ee9528cb93272bed4dbeb5281

◆ 【経営コンサルタントのひとり言】

 経営コンサルタントのプロや準備中の人だけではなく、経営者・管理職などにも読んでいただける二兎を追うコンテンツで毎日つぶやいています。 

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/a0db9e97e26ce845dec545bcc5fabd4e

【 注 】

 【きょうの人】は、【Wikipedia】・当該関連サイトを参照・引用して作成しています。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■【きょうの人】 0502 ■ 聖武天皇 藤原氏の影響大であったようです

2023-05-02 06:33:00 | 【話材】 きょうの人05月

 

  【きょうの人】 0502 ■ 聖武天皇 藤原氏の影響大であったようです

 

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。

 

■ 聖武天皇 藤原氏の影響大であったようです

 しょうむてんのう
 701年〈大宝元年〉-756年6月4日〈天平勝宝8年5月2日〉)

 日本の第45代天皇(在位:724年3月3日〈神亀元年2月4日〉- 749年8月19日〈天平勝宝元年7月2日〉で、諱は首(おびと)、尊号(諡号)を天璽国押開豊桜彦天皇(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこのすめらみこと)、勝宝感神聖武皇帝(しょうほうかんじんしょうむこうてい)、沙弥勝満(しゃみしょうまん)ともいいます。

 文武天皇の第一皇子で、母は藤原不比等の娘・宮子です。

 父・文武天皇に、7歳で死別、母の宮子も心的障害に陥ったため、その後は長く会うことはありませんでした。このため、文武天皇の母である元明天皇(天智天皇皇女)が中継ぎの天皇として即位しました。

 最終的に聖武天皇の後宮には他に4人の夫人が入りましたが、光明皇后を含めた5人全員が藤原不比等・県犬養三千代のいずれか、または両人の血縁の者でした。

 天平9年(737年)に天然痘の大流行が起こり、藤原四兄弟を始めとする政府高官のほとんどが病死するという惨事に見舞われ、急遽、長屋王の実弟である鈴鹿王を知太政官事に任じて辛うじて政府の体裁を整えることになりました。

 天平年間は、災害や疫病(天然痘)が多発したため、聖武天皇は仏教に深く帰依し、天平13年(741年)には国分寺建立の詔を、天平15年(743年)には東大寺盧舎那仏像の造立の詔を出しています。

 病弱でありましたが、その功績は、後世でも認められています。

 

◆ 【きょうの人】 バックナンバー

 歴史上で活躍したり、仏教など宗教関係の人であったり、ジャンルはいろいろですが、彼等から、学ぶところが多々ありますので、それをご紹介します。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b57a13cf0fc1c961c4f6eb02c2b84c9f

◆ 【今日は何の日】は、毎日発信しています。

 一年365日、毎日が何かの日です。 季節を表す日もあります。 地方地方の伝統的な行事やお祭りなどもあります。 誰かの誕生日かも知れません。 歴史上の出来事もあります。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b980872ee9528cb93272bed4dbeb5281

◆ 【経営コンサルタントのひとり言】

 経営コンサルタントのプロや準備中の人だけではなく、経営者・管理職などにも読んでいただける二兎を追うコンテンツで毎日つぶやいています。 

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/a0db9e97e26ce845dec545bcc5fabd4e

【 注 】

 【きょうの人】は、【Wikipedia】・当該関連サイトを参照・引用して作成しています。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする