経営コンサルタントへの道

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■【きょうの人】 0915 ■ 覚猷 鳥獣戯画の作者と言われる ■ 伊達 政宗 伊達男 独眼竜の野望

2023-09-15 06:33:00 | 【話材】 きょうの人09月

  【きょうの人】 0915 ■ 覚猷 鳥獣戯画の作者と言われる ■ 伊達 政宗 伊達男 独眼竜の野望

 

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■ 伊達 政宗 伊達男 独眼竜の野望


 だて まさむね
 永禄10年8月3日(1567年9月5日、グレゴリオ暦1567年9月15日)-寛永13年5月24日(1636年6月27日)

 出羽国と陸奥国の戦国大名で、伊達氏の第17代当主です。近世大名としては仙台藩の初代藩主です。

 幼名が梵天丸であることはよく知られています。幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し、「独眼竜」の異名があります。没後は、法名から貞山公と尊称されています。

 天正17年11月、後北条氏が真田領へ侵攻したことにより、豊臣氏により征伐が行われることになりました。政宗は父・輝宗の時代から後北条氏と同盟関係にありましたので、再三の、秀吉からの督促にもかかわらず、秀吉と戦うべきか小田原に参陣すべきか、直前まで迷っていたといいます。

 最終的には、秀吉に恭順の意を示すのですが、その際に、白装束(死人の装束)で臨んだことは有名です。

 秀吉・文禄の役では、派手な装いで軍を引き連れ、そのことから派手好みに着こなす人を指して「伊達者(だてもの)」と呼ぶようになりました。今日の「伊達男」に通じます。

 

■ 覚猷 鳥獣戯画の作者と言われる


 かくゆう
 天喜元年(1053年)- 保延6年9月15日(1140年10月27日)

 平安時代後期の天台僧で、鳥羽僧正(とばそうじょう)とも呼ばれます。日本仏教界の重職を務めた高僧であるのみならず、絵画にも精通し、現在高山寺が所蔵します、鳥獣人物戯画などの作者に擬せられています。そのユニークでユーモアあふれる作風から、漫画の始祖とされます。

 覚猷は、1053年に源隆国の第九子として出生し、若年時に出家しました。園城寺にて天台仏教・密教を修めながら、画技にも長じるようになりました。

 長らく園城寺法輪院に住し、密教図像の集成と絵師の育成に大きな功績を残したほか、自らの画術研鑽にも努めました。

 四天王寺別当、法成寺別当、園城寺長吏など大寺社の要職を歴任する間、1132年には僧正へ、1134年には大僧正へ任じられました。

 1138年、47世天台座主となりましたが3日で退任し、鳥羽上皇が住む鳥羽離宮の証金剛院へ移り、同離宮の護持僧となりました。それ以後、鳥羽僧正と呼ばれるようになりました。

  【カシャリ! ひとり旅】 高山寺
  http://www.glomaconj.com/butsuzou/meisho/kyoto/kyoto_kousanji.htm

 

 鳥獣戯画は、「鳥獣人物戯画(ちょうじゅうじんぶつぎが)」というのが正式名称のようです。京都市高山寺に伝わる紙本墨画の絵巻物で、「日本最古の漫画」ともいわれる、国宝です。

 甲・乙・丙・丁と呼ばれる全4巻から校正されています。ウサギ・カエル・サルなどが擬人化されて、当時の世相を反映しているところが面白いですね。

 筆遣いなどから、複数のひとが制作に携わっているという説が有力で、掲題の覚猷もそのひとりと目されています。

 高山寺で公開されているのはレプリカですが、写真をとっても良いというのが嬉しいですね。

 

 

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■【きょうの人】 0914 崇徳天皇 和歌に優れ没頭しすぎて・・・

2023-09-14 06:33:00 | 【話材】 きょうの人09月

 

  【きょうの人】 0914 崇徳天皇 和歌に優れ没頭しすぎて・・・

 

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 崇徳天皇 和歌に優れ没頭しすぎて・・・


 すとくてんのう
 1119年7月7日〈元永2年5月28日〉- 1164年9月14日〈長寛2年8月26日〉

 第75代天皇(在位: 1123年2月25日〈保安4年1月28日〉- 1142年1月5日〈永治元年12月7日〉)で、諱は顕仁(あきひと)です。

 鳥羽天皇の第一皇子で、母は中宮・藤原璋子(待賢門院)という、素晴らしい血統を引き継いでいます。譲位後は新院、しかし、その後、平安時代末期の1156年(保元元年)に、貴族の内部抗争である保元の乱で、後白河天皇に敗れ、讃岐に配流後は讃岐院とも呼ばれました。

 崇徳院は、在位中から頻繁に歌会を催し、太上天皇になってからは和歌の世界に没頭しました。鳥羽法皇が和歌に熱心でなかったことから、当時の歌壇は崇徳院を中心に展開しました。

 鳥羽院とうまく行かず、上皇としては実権がありませんでした。保元の乱後、鳥羽法皇が崩御しても、その地位は快方に向かわず、讃岐に流罪となってしまいました。

 雨月物語に代表されますように、崇徳院の怨念が数々の禍を引き起こしていると、非難囂々の晩年でした。

 

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■【きょうの人】 0913 棟方 志功 20世紀の美術を代表する世界的巨匠の一人

2023-09-13 06:33:00 | 【話材】 きょうの人09月

 

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 棟方 志功 20世紀の美術を代表する世界的巨匠の一人


 むなかた しこう
 1903年(明治36年)9月5日 - 1975年(昭和50年)9月13日)

 日本の板画家であり、20世紀の美術を代表する世界的巨匠の一人といえます。

 青森県出身で、川上澄生の版画「初夏の風」を見た感激で、版画家になることを決意したといわれています。

 1942年(昭和17年)以降、彼は版画を「板画」と称し、木版の特徴を生かした作品を一貫して作り続けました。

 はじめは帝展や白日会展などに油絵を出品しても落選が続きましたが、1928年(昭和3年)、第9回帝展に「雑園」(油絵)を出品し、入選しますと、頭角を現してきます。

 1930年(昭和5年)から文化学院で美術教師を務め、日本版画協会の会員ともなっています。

 1956年(昭和31年)には、ヴェネツィア・ビエンナーレに「湧然する女者達々」などを出品し、日本人として版画部門で初の国際版画大賞を受賞しました。

 棟方は大変な近視であり、眼鏡が板に付く程に顔を近づけて、軍艦マーチを口ずさみながら板画を彫ったというエピソードが伝わっています。

 第二次世界大戦中、富山県に疎開して浄土真宗にふれたのげ契機となり、仏を在々にした作品が高い評価を得ることになります。

 「阿弥陀如来像」「蓮如上人の柵」など、私が好きな作品が多数あります。

 

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■【きょうの人】 0912 普明国師(春屋妙葩) 室町時代の禅僧、臨済宗相国寺の第二世

2023-09-12 06:22:37 | 【話材】 きょうの人09月

 

  【きょうの人】 0912 普明国師(春屋妙葩) 室町時代の禅僧、臨済宗相国寺の第二世

 

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 普明国師(春屋妙葩) 室町時代の禅僧、臨済宗相国寺の第二世


 ふめいこくし  しゅんおく みょう
 応長元年12月22日(1312年1月31日)-元中5年/嘉慶2年8月12日(1388年9月12日)

 

 室町時代の臨済宗の禅僧で、室町幕府の帰依を得て臨済宗相国寺の第二世となりました。事実上の開山国師です。

 五山文化の発展に寄与した。ほかに天龍寺や臨川寺の住職をしています。

 春屋は道号、別号に芥室、不軽子など。諡号は知覚普明国師です。

 母方の叔父である夢窓疎石のもとで受戒すると天龍寺の住職となりました。室町幕府に対して、五山第一の南禅寺の楼門(山門)新築を提言しました。

 幕府は楼門建設の援助をしましたが、南禅寺と紛争状態であった園城寺がこれに強く抗議をしました。

 比叡山の門徒もこれに加わり楼門撤去や妙葩の配流を求め、紛争は政治問題にまで発展してしまいました。

 妙葩は頼之と対立して天龍寺住職を辞して阿波国光勝院、さらに丹後国雲門寺に隠棲することになりました。

 1379年(康暦元年/天授5年)の康暦の政変で頼之が失脚した後に入京し、南禅寺住職として復帰しました。

 

 

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■【きょうの人】 0911 空也 平安時代 口称念仏の祖

2023-09-11 06:33:00 | 【話材】 きょうの人09月

 

  【きょうの人】 0911 空也 平安時代 口称念仏の祖

 

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 空也 平安時代 口称念仏の祖


 くうや
 延喜3年 - 天禄3年9月11日 (新暦):903年 - 972年10月20日)


 平安時代中期に京都で生まれた浄土宗の僧で、阿弥陀聖(あみだひじり)、市聖(いちのひじり)、市上人とも称されます。

 口称念仏の祖で、民間における浄土教の先駆者と評価されます。空也流の念仏勧進聖は、鎌倉仏教の浄土信仰を醸成したとされています。

 俗に天台宗空也派と称する一派においても祖と仰がれていますが、空也自身は、複数宗派と関わりを持つ超宗派的立場を保ちました。

 没後も空也の法統を直接伝える宗派は組織されませんでした。よって、空也を開山とする寺院は天台宗に限らず、在世中の活動拠点であった六波羅蜜寺は、現在真言宗智山派に属します。(空也の没後中興した中信以降、桃山時代までは天台宗でした)。

 踊り念仏、六斎念仏の開祖とも仰がれますが、空也自身が、いわゆる踊り念仏を修したという確証はありません。

 門弟は、高野聖など中世以降に広まった民間浄土教行者「念仏聖」の先駆となり、鎌倉時代の一遍に多大な影響を与えました。

 遺命により11月13日をもってその忌日とし、踊り念仏を修して空也忌法要が行われます。


 京都六波羅蜜寺には、有名な空也上人像があります。

 口から仏像が並んで出ている像の写真を見られた方は多いのではないでしょうか。

 

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■【きょうの人】 0910 斎藤 龍興 マムシの道三の孫

2023-09-10 06:33:00 | 【話材】 きょうの人09月

 

  【きょうの人】 0910 斎藤 龍興 マムシの道三の孫

 

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 斎藤 龍興 マムシの道三の孫

 さいとう たつおき
 天文17年(1548年)-天正元年8月14日(1573年9月10日)


 戦国時代の美濃国の戦国大名、道三流斎藤家3代です。

 天文17年(1548年)、道三に刃を向けた斎藤義龍の庶子とも、生母が近江の方(近江局)ともいわれています。

 近江の方は浅井久政の養女で久政の父・浅井亮政の娘であるという説が有力です。義龍と道三の父子関係を肯定するのであれば、斎藤道三の実の孫に当たります。

 永禄4年(1561年)、父・義龍の死により14歳で美濃斎藤氏の家督を継ぎますが、家臣の信望を得ることができなかったようです。

 永禄4年の森部の戦いにおいては、戦いそのものには勝利したものの、重臣(斎藤六宿老)の日比野清実、長井衛安らを失いました。

 永禄5年(1562年)には、有力家臣であった郡上八幡城主の遠藤盛数が病没してしまいます。

 長島に亡命した龍興は、元亀元年(1570年)に始まる長島一向一揆に長井道利と共に参加し、信長に対する抵抗をしました。

 その後、三好三人衆と結託し、信長が擁立した室町幕府第15代将軍・足利義昭を攻め殺そうとしましたが、敗退してしまいました。

 縁戚関係にあったことから越前国の朝倉義景の下へ逃れて保護されたりしました。

 天正元年(1573年)に、義景が、浅井長政を支援し、信長と対決するために近江国北部に出陣した際に龍興も従軍しました。朝倉軍が織田軍に敗れ、達興も戦死しました。


 誰とタグを組むのか、選択を誤ると、惨めな結果に繋がってしまうものですね。これは、企業経営でも言えることではないでしょうか。

 

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■【きょうの人】 0909 ■ 上杉 鷹山 海外でも知られる日本を代表する名君 ■ 藤原 不比等 藤原氏の絶大なる権力を築く ■ 山川健次郎 物理学者・教育者

2023-09-09 06:33:00 | 【話材】 きょうの人09月

 

  【きょうの人】 0909 ■ 上杉 鷹山 海外でも知られる日本を代表する名君 ■ 藤原 不比等 藤原氏の絶大なる権力を築く ■ 山川健次郎 物理学者・教育者

 

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 山川健次郎 物理学者・教育者


 やまかわ けんじろう
 1854年9月9日(嘉永7年閏7月17日)- 1931年(昭和6年)6月26日

 明治時代から昭和初期にかけての日本の物理学者であり、教育者でもあります。男爵の爵位を持っていました。

 会津藩出身で、白虎隊の兵士として明治政府と戦った勇者でもあります。国費で米国留学をして、東京帝国大学(東京大学の前身)に登用されました。東京帝国大学総長や九州帝国大学(九州大学の前身)の初代総長など、多数の大学等で共育に携わってきました。

 会津藩出身で、白虎隊の兵士として明治政府と戦った勇者でもあります。国費で米国留学をして、東京帝国大学(東京大学の前身)に登用されました。東京帝国大学総長や九州帝国大学(九州大学の前身)の初代総長など、多数の大学等で共育に携わってきました。

 少年期に、白虎隊に入隊していたの時の経験を元に著した、戊辰戦争を会津藩側の立場から見た『会津戊辰戦史』はM死後の昭和7年(1932年)に出版されました。この本は旧幕府軍側を「東軍」新政府軍側を「西軍」と書いた初めての本です。

 会津藩に対する忠誠心は、壮年期以降は「愛国心」に転じ、日露戦争の時にはすでに東大総長であったにも関わらず陸軍に「一兵卒として従軍させろ」と押し掛けたという逸話もあります。

「はじめてカレーライスを食べた日本人」と諸本で紹介されていますが、定かではありません。しかし、明治4年(1871年)に、国費留学生としてアメリカに向かう船中で、カレーライスを食べたという記述が回想録に書き残されています。しかし、カレーライスを選んだのは、それが唯一米を使った料理でしたからで、カレーはすべて残したといわれています。

 

■ 藤原 不比等 藤原氏の絶大なる権力を築く


 ふじわら の ふひと
 斉明天皇5年(659年)-養老4年8月3日(720年9月9日)

 飛鳥時代から奈良時代初期にかけての公卿で、天智天皇から藤原氏の姓を賜った藤原鎌足の次男です。文献によっては「史(ふひと)」と記されている場合もあります。

『興福寺縁起』『大鏡』『公卿補任』『尊卑分脈』などの史料では天智天皇の落胤と記述されています。諡号は、文忠公、国公は淡海公です。

 文武天皇2年(698年)には、不比等の子孫のみが藤原姓を名乗り、太政官の官職に就くことができるとされ、絶大なる権力を握っていました。

 不比等の従兄弟たちは、鎌足の元の姓である中臣朝臣姓とされ、神祇官として祭祀のみを担当することと明確に分けられていました。このため、不比等が、藤原氏の実質的な家祖と解することもできます。

 天武朝の前期は不遇でしたが、後期に入りますと、草壁皇子に仕え、東大寺正倉院の宝物として『国家珍宝帳』に記載されている「黒作懸佩刀」は、草壁皇子から不比等に授けられた皇子の護り刀といわれています。後に皇子と不比等自身の共通の孫である聖武天皇に譲られたと伝えられています。

 大宝律令編纂において中心的な役割を果たしたことが、政治の表舞台に登場する契機となりました。

 文武天皇の即位直後には娘の藤原宮子が天皇の夫人となり、藤原朝臣姓の名乗りが不比等の子孫に限定され、藤原氏=不比等家が成立しています。

 不比等は、氏寺の山階寺を奈良に移し、興福寺と改めました。

 不比等とその息子の藤原四兄弟によって、藤原氏の繁栄の基礎が固められるとともに最初の黄金時代が作り上げられたのです。

 

■ 上杉 鷹山 海外でも知られる日本を代表する名君

 うえすぎ ようざん 上杉 治憲(うえすぎ はるのり)
 寛延4年7月20日(1751年9月9日)- 文政5年3月11日(1822年4月2日)

 母方の祖母の豊姫が米沢藩4代藩主上杉綱憲の娘であったことが縁で、10歳で米沢藩8代藩主重定の養子となりました。

 正室は、養子となった重定の娘・幸姫(又従妹にあたる)でしたが発達障害など健康上の悩みを抱えていたようです。後継者が絶えることを恐れた重役たちの勧めで、1770年(明和7年)に10歳年上で上杉家分家の姫であるお豊の方を側室に迎え、二人の子をもうけました。お豊の方は教養が高く、歌道をたしなんだ人でした。

 二人の子供は、若くして亡くなり、鷹山の直結で血を継ぐ人はなくなってしまいました。


 江戸時代中期の大名で、出羽国(山形県)米沢藩9代藩主でした。上杉謙信という名門の家柄でしたが、領地返上寸前の財政難に陥っていました。その米沢藩再生のきっかけを作り、江戸時代屈指の名君として知られています。諱は初め勝興、後に治憲となりますが、藩主隠居後の号である鷹山の方が著名です。

 宝暦13年(1763年)より尾張国出身の折衷学者細井平洲を学問の師と仰ぎました。

 10代将軍徳川家治より「治憲」の名を賜り、明和4年(1767年)に家督を継ぎました。

 家督を継いだとき、上杉家は、18世紀中頃には借財が20万両(現代の通貨に換算して約150億から200億円)に累積していました。

 初代藩主景勝は、越後で120万石時代に従えていた家臣団6千人をそのまま、石高が15万石で召しかかえました。このため他藩とは比較にならないほど人口に占める家臣の割合が高かったことから、人件費だけでも藩財政に深刻な負担を与えていたのでした。

 加えて農村の疲弊や、宝暦3年の寛永寺普請による出費、宝暦5年(1755年)の洪水による被害が藩財政を直撃したのです。

 名家の誇りを重んずるゆえ、豪奢な生活を改められなかった前藩主・重定は、藩領を返上して領民救済は公儀に委ねようと本気で考えたほどであったと伝えられています。

 藩主に就任した鷹山(治憲)は、民政家で産業に明るい竹俣当綱や財政に明るい莅戸善政を重用しました。当然のことながら、先代任命の家老らと厳しく対立することになりました。

 江戸での仕切料(生活費)を8分の1に減額、奥女中を50人から9人に減らすなどの倹約を行ったりしました。

 天明の大飢饉では、東北地方を中心に餓死者が多発しましたが、鷹山(治憲)は、非常食の普及や藩士・農民へ倹約の奨励などの対策に努めました。

 自らも着衣として、木綿の使用は羽織や袴だけでなく、下着にいたるまで着衣の全てに使用していたそうです。食事の内容は朝食に粥を2膳ほどと香の物(漬物)、昼食や夜食に干し魚などの肴類を添えて、うどんやそばを食べていたと伝わっています。酒は飲まず、冬になると甘酒を一椀ずつ飲んでいた。結果的に倹約ができて健康にも良い粗衣粗食であったようです。


 曾祖父綱憲(4代藩主)が創設し、後に閉鎖されていた学問所を藩校・興譲館(現山形県立米沢興譲館高等学校)として、細井平洲・神保綱忠によって再興させ、藩士・農民など身分を問わず学問を学ばせました。

 改革に反対する藩の重役が、改革中止と改革推進の竹俣当綱派の罷免を強訴するという、いわゆる「七家騒動」が勃発しましたが、鷹山(治憲)は、これを退けました。

 これらの施策と裁決で破綻寸前の藩財政は立ち直り、次々代の斉定時代に借債を完済するほどまでに財政の健全化がすすみました。


 義父・重定は、実子がいるのに鷹山を9代藩主にしましたが、鷹山は重定の次男・勝意(治広)を、鷹山の跡を継がせて10代藩主としました。逝去まで後継藩主を後見し、藩政を実質指導しました。

 隠居後は、重定隠居所の偕楽館に、後に米沢城三の丸に建設された餐霞館が完成するとそちらに移りました。

 享和2年(1802年)、剃髪し、鷹山と号すようになりました。この号は、米沢藩領北部にありました白鷹山(しらたかやま)からとったと言われています。

 文政5年3月11日(1822年4月2日)の早朝に、疲労と老衰のために睡眠中に、享年72才で死去しました。法名は元徳院殿聖翁文心大居士、墓所は米沢市御廟の上杉家廟所です。

 初め、上杉神社に藩祖謙信と共に祭神として祀られましたが、明治35年(1902年)に設けられた摂社松岬神社に遷され、現在に至っています。

 

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■【きょうの人】 0908 ■ 堀江謙一 ヨットで太平洋単独無寄港横断の冒険 ■ 一遍上人 鎌倉中期 時宗の開祖

2023-09-08 06:33:00 | 【話材】 きょうの人09月

 

  【きょうの人】 0908 ■ 堀江謙一 ヨットで太平洋単独無寄港横断の冒険 ■ 一遍上人 鎌倉中期 時宗の開祖

 

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

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■ 堀江謙一 ヨットで太平洋単独無寄港横断の冒険

 ほりえ けんいち
 1938年〈昭和13年〉9月8日-

 日本の代表的な海洋冒険家で「ソロセーラー」「ヨットマン」の愛称があります。大阪市生まれで、現在は兵庫県芦屋市に在住しています。

 1962年5月12日、23歳で、小型ヨット『MERMAID(マーメイド)』で、単独無寄港太平洋横断を目指して、兵庫県西宮を出港しました。全長5.83m、水線長5.03m、幅2.00m、船体は合板(ラワン)製の小型ヨットでした。94日の単独航海でサンフランシスコに入港、日本人による単独無寄港太平洋横断は初めてであり、小型ヨットでは世界初といえます。

 当時はヨットによる出国が認められていませんでした。「密出国」という不法出国で、逮捕される可能性がありました。当時のサンフランシスコ市長ジョージ・クリストファーが「コロンブスもパスポートは省略した」と、堀江に対して尊敬の念をもって名誉市民として受け入れるというエピソードに救われ、不起訴となりました。

 1972年に『マーメイドII』で、東回り単独無寄港世界一周を目指しましたが、マストが折損したため断念しました。

 翌1973年『マーメイドIII号』で、西回り単独無寄港世界一周を目指して、淡路島を出港、翌年、航海日数275日の公開の後に帰国しました。イギリス人のロビン・ノックス・ジョンストンに次いで世界で2人目でした。

 2022年には、小型ヨット『サントリーマーメイドIII号』(全⻑6.05m)で、サンフランシスコのゴールデン・ゲート・ブリッジ下から出向、世界最高齢での単独無寄港太平洋横断を達成しました。

 日本を代表する海洋冒険家として、その名を残しています。

 

 一遍上人 鎌倉中期 時宗の開祖

 

 いっぺん
 延応元年2月15日 - 正応2年8月23日
  1239年3月21日 - 1289年9月9日

 

  鎌倉時代中期、伊予国で誕生した僧侶で、時宗の開祖です。

  「一遍」は房号であり、法諱は「智真」。一は一如、遍は遍満より、名前が付けられています。

  「一遍」とは、「一にして、しかも遍く(あまねく)」の義であり、南無阿弥陀仏を一遍(一度、一回)唱えるだけで悟りが証されるという教義でもあります。

  「智」は、「悟りの智慧」、真は「御仏が示す真(まこと)」を表します。

 「一遍上人」、「遊行上人(ゆぎょうしょうにん)」、「捨聖(すてひじり)」と尊称されます。近代における私諡号は「円照大師」、1940年に国家より「証誠大師」号を贈られ、俗名は河野時氏とも、通秀とも、通尚ともいいますが、定かではありません。

 古来日本では、人の名をむやみに呼ぶべきではなく、人に知らせるものでもありません。ましてや実名では呼ぶべきではないという慣習が存在していましたので、このように複数の名前が存在する原因と考えられます。


 延応元年(1239年)伊予国(ほぼ現在の愛媛県)の豪族、別府氏に生まれました。道後温泉の近くです。

  各地を行脚し、信濃国で踊り念仏を始め、民衆を極楽浄土へと導きました。踊り念仏は尊敬していた空也上人に倣ったものといわれています。

  正応2年(1289年)2月15日、享年51歳で摂津兵庫津の観音堂(後の真光寺)で没しました

【Wikipedia】 一遍(いっぺん)
  鎌倉時代中期の僧侶。時宗の開祖。「一遍」は房号で、法諱は「智真」。「一遍上人」、「遊行上人(ゆぎょうしょうにん)」、「捨聖(すてひじり)」と尊称される。近代における私諡号は「円照大師」、1940年に国家より「証誠大師」号を贈られた。俗名は河野時氏とも通秀、通尚ともいうが、定かでない。

 

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■【きょうの人】 0907 泉 鏡花 小説家・戯曲家・俳人

2023-09-07 06:33:00 | 【話材】 きょうの人09月

 

  【きょうの人】 0907 泉 鏡花 小説家・戯曲家・俳人

 

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 泉 鏡花 小説家・戯曲家・俳人

 

 いずみ きょうか
 1873年(明治6年)11月4日 - 1939年(昭和14年)9月7日)

 明治後期から昭和初期にかけて活躍した小説家で、小説のほか、戯曲や俳句も手がけました。本名、鏡太郎(きょうたろう)で、金沢市下新町に生まれました。

 尾崎紅葉に師事し、『夜行巡査』『外科室』という作品で高い評価を得ました。

 代表作『高野聖』『婦系図』で人気作家の一人になり、江戸文芸の影響を深く受けた怪奇趣味と特有のロマンティシズムで知られる作家となりました。

 近代における幻想文学の先駆者としても評価されます。

 晩年、春陽堂より『鏡花全集』刊行を開始し、鏡花を師と仰ぐ里見弴、谷崎潤一郎、水上瀧太郎、久保田万太郎、芥川龍之介、小山内薫などの錚々たる面々が編集委員を務めました。

 

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■【きょうの人】 0906 月輪大師・俊じょう 「げつりん」ではありません

2023-09-06 06:33:00 | 【話材】 きょうの人09月

 

  【きょうの人】 0906 月輪大師・俊じょう 「げつりん」ではありません

 

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 月輪大師・俊じょう 「げつりん」ではありません

 

 がちりん、しゅんじょう
 仁安元年8月10日(1166年9月6日)- 嘉禄3年閏3月8日(1227年4月25日)

 

 字は「我禅」、号は「不可棄」、勅号は「大興正法国師」です。一般には、「月輪大師(がちりんだいし)」と呼ばれることが多いです。

 鎌倉時代前期の僧で、肥後国飽田郡の出身ということはわかっていますが、出自については不詳です。

 土御門帝正治元年、中国・宋で12年間修行をしました。そこでは、四分の律並に天台、密禅の諸宗を学びました。

 帰国後泉涌寺に入り、真言宗泉涌寺派の宗祖となりました。

 貴賤を問わず、民と接したことから、その得をしたい、帰依する人が多かったと言われています。

 

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■【きょうの人】 0905 ■ 棟方 志功 日本を代表する版画家生誕 ■ 伊達 政宗 独眼竜

2023-09-05 06:33:00 | 【話材】 きょうの人09月

 

  【きょうの人】 0905 ■ 棟方 志功 日本を代表する版画家生誕 ■ 伊達 政宗 独眼竜

 

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 伊達 政宗 独眼竜

 

 だて まさむね
 永禄10年8月3日(1567年9月5日、グレゴリオ暦1567年9月15日)-寛永13年5月24日(1636年6月27日)

 出羽国と陸奥国の戦国大名で、伊達氏の第17代当主です。近世大名としては仙台藩の初代藩主です。

 幼名が梵天丸であることはよく知られています。幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し、「独眼竜」の異名があります。没後は、法名から貞山公と尊称されています。

 天正17年11月、後北条氏が真田領へ侵攻したことにより、豊臣氏により征伐が行われることになりました。政宗は父・輝宗の時代から後北条氏と同盟関係にありましたので、再三の、秀吉からの督促にもかかわらず、秀吉と戦うべきか小田原に参陣すべきか、直前まで迷っていたといいます。

 最終的には、秀吉に恭順の意を示すのですが、その際に、白装束(死人の装束)で臨んだことは有名です。

 秀吉・文禄の役では、派手な装いで軍を引き連れ、そのことから派手好みに着こなす人を指して「伊達者(だてもの)」と呼ぶようになりました。今日の「伊達男」に通じます。


■ 棟方 志功 日本を代表する版画家生誕

 

 むなかた しこう
 1903年(明治36年)9月5日 - 1975年(昭和50年)9月13日)

 日本の板画家であり、20世紀の美術を代表する世界的巨匠の一人といえます。

 青森県出身で、川上澄生の版画「初夏の風」を見た感激で、版画家になることを決意したといわれています。

 1942年(昭和17年)以降、彼は版画を「板画」と称し、木版の特徴を生かした作品を一貫して作り続けました。

 はじめは帝展や白日会展などに油絵を出品しても落選が続きましたが、1928年(昭和3年)、第9回帝展に「雑園」(油絵)を出品し、入選しますと、頭角を現してきます。

 1930年(昭和5年)から文化学院で美術教師を務め、日本版画協会の会員ともなっています。

 1956年(昭和31年)には、ヴェネツィア・ビエンナーレに「湧然する女者達々」などを出品し、日本人として版画部門で初の国際版画大賞を受賞しました。

 棟方は大変な近視であり、眼鏡が板に付く程に顔を近づけて、軍艦マーチを口ずさみながら板画を彫ったというエピソードが伝わっています。

 第二次世界大戦中、富山県に疎開して浄土真宗にふれたのげ契機となり、仏を在々にした作品が高い評価を得ることになります。

 「阿弥陀如来像」「蓮如上人の柵」など、私が好きな作品が多数あります。

 

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■【きょうの人】 0904 ■ 藤子・F・不二雄 ドラえもんの生みの親 ■ 二宮 尊徳 経世家、農政家、思想家 ■ 田中 正造 日本最初の郊外に立ち向かった男

2023-09-04 06:33:00 | 【話材】 きょうの人09月

■【きょうの人】 0904 ■ 藤子・F・不二雄 ドラえもんの生みの親 ■ 二宮 尊徳 経世家、農政家、思想家  田中 正造 日本最初の郊外に立ち向かった男

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 田中 正造 日本最初の郊外に立ち向かった男

 

 たなか しょうぞう
 天保12年11月3日(1841年12月15日)- 1913年(大正2年)9月4日)

 幼名、兼三郎、下野国安蘇郡小中村(現・栃木県佐野市小中町)の出身です。

 日本の政治家で、日本初の公害事件と言われる足尾鉱毒事件を明治天皇に直訴した政治家として知られています。衆議院議員選挙に当選6回。

 足尾鉱毒事件は、19世紀後半の明治時代初期から栃木県と群馬県の渡良瀬川周辺で起きた、日本で初めてとなる公害事件です。

 銅山の開発により排煙、鉱毒ガス、鉱毒水などの有害物質が周辺環境に著しい影響をもたらし、1890年代より栃木の政治家であった田中正造が中心となり国に問題提起しましたが、加害者決定はされませんでした。

 足尾の精錬所は1980年代まで稼働し続け、2011年に発生した東北地方太平洋沖地震の影響で渡良瀬川下流から基準値を超える鉛が検出されるなど、21世紀となった現在でも影響が残っています。

 学生時代に、鉱山跡に行ったことがありますが、周囲の木々は立ち枯れたまま残っていました。その不気味さは、人気もないことから今でも覚えています。

 

■ 藤子・F・不二雄 ドラえもんの生みの親

 

 ふじこ・エフ・ふじお
 1933年〈昭和8年〉12月1日 - 1996年〈平成8年〉9月23日

 ドラえもんで知られる漫画家であり、脚本家です。本名は、藤本 弘(ふじもと ひろし)、「F」とは「藤本(フジモト)」の頭文字を意味し、藤子・A・不二雄と区別していることはよく知られています。

 富山県高岡市定塚町出身で、富山県立高岡工芸高等学校電気科を卒業しています。

 隣接の氷見市出身の安孫子素雄(藤子不二雄?)と共に“藤子不二雄”としてコンビを組み、数多くの作品を発表してきました。

 児童漫画の新時代を築き、第一人者となり、代表作は『ドラえもん』の他に『パーマン』『キテレツ大百科』『エスパー魔美』『21エモン』などがあります。

 作品の著作権管理は、生前に活動拠点としていた藤子・F・不二雄プロが担当しています。

 愛用していた鉛筆は三菱ユニのB、ペン先はゼブラのかぶらペンとこだわりがあり、整理された画面構成を好み、不必要な線が入りすぎることを極端に嫌いました。


  ちなみに、藤子・不二雄?のプロフィールを以下に挿入しておきます。

 ふじこ・ふじお・エー
 1934年3月10日 -

 日本の漫画家で、本名は、安孫子 素雄(あびこ もとお)です。大垣女子短期大学客員教授をしています(2020年5月22日現在)。

 座右の銘は「明日にのばせることを今日するな」で、血液型はA型です。

 藤本弘(藤子・F・不二雄)とともに、藤子不二雄としてコンビを組み、作品を発表してきたことはよく知られています。コンビ解消後は、本名で紹介されることも多いようで、筆名の「?」は「安孫子」の頭文字であることは、想像がつきます。

 曹洞宗49代目住職の息子として、富山県氷見郡氷見町(現:氷見市)の光禅寺という古刹に生まれました。

 大人になってもベジタリアン(卵と乳製品は食べる卵乳菜食)ですが、思想上の理由ではなく、子供の頃に精進料理ばかり食べていたため、習慣上の問題として肉や魚を体が受け付けなくなっていることが原因だといいます。

 1944年に父を亡くして高岡市に転居し、転入先の高岡市立定塚国民学校(現・高岡市立定塚小学校)で藤本弘と知り合いました。

 小学校時代から漫画家を志し、高校在学中に毎日小学生新聞でデビューしました。

『オバケのQ太郎』、『忍者ハットリくん』、『魔太郎がくる!!』などのヒット作にめぐまれています。

 2人の合作によるヒット作は『オバケのQ太郎』が最後であり、これ以降は藤子不二雄名ではあっても、そのほとんどはどちらかの単独作品です。

 


■ 二宮 尊徳 経世家、農政家、思想家

 

 にのみや たかのり
 天明7年7月23日(1787年9月4日)-安政3年10月20日(1856年11月17日)

 江戸時代後期の経世家、農政家、思想家です。自筆文書では、金治郎(きんじろう)と署名している例が多いのですが、一般には「金次郎」と表記されることが多いです。

 諱の「尊徳」は正確には「たかのり」と読みますが、「そんとく」という読みで定着しています。

 経世済民を目指して報徳思想を唱え、報徳仕法と呼ばれる農村復興政策を指導しました。

  四字熟語 経世済民
  http://www.glomaconj.com/joho/keieijoho.htm#17

相模国足柄上郡栢山村(現在の小田原市)に、百姓二宮利右衛門の長男として生まれました。

 尊徳は、まず生まれた堀之内村の中島弥三右衛門の娘・きの(キノ)を妻としますが、離縁、20歳も若い、貞淑温良ななみ(波子)と結婚しました。

 文化5年(1808年)、母の実家川久保家が貧窮するとこれを資金援助し、翌年には二宮総本家伊右衛門跡の再興を宣言し、基金を立ち上げるなど、成果を出しています。

 小田原藩で1,200石取の家老をしている服部十郎兵衛が、金治郎に服部家の家政の建て直しを依頼し、千両もの負債を償却し、頭角を現しました。

 文政4年(1821年)には、小田原藩主大久保家の分家であります宇津家の旗本知行所が荒廃していて、再興救済を藩主より命じられました。農民の抵抗で苦労しましたが、再建しました。

 晩年近く、天保4年(1833年)には、天保の大飢饉が関東を襲いましたが、金次郎の力を充分に発揮しました。


 二宮金次郎といえば、戦前には、どの学校にも銅像が建っていると言えるほど、一般的でした。背中に芝を背負い、本を読む姿は、子供達へのお手本でした。今日では、歩きスマホが非難を浴びていますが、当時は、むしろ誉められる行為だったのですね。
 

 

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■【きょうの人】 0903 ■ 良源 元三大師 ■ 呑龍 子育ての願掛け

2023-09-03 06:33:00 | 【話材】 きょうの人09月

 

  【きょうの人】 0903 ■ 良源 元三大師 ■ 呑龍 子育ての願掛け

 

 

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 良源 元三大師

 

 りょうげん
 延喜12年9月3日(912年10月15日) - 永観3年1月3日(985年1月26日)

 平安時代の天台宗の僧で、近江に生まれ、諡号は「慈恵(じえ)」、一般には通称の「元三大師(がんざんだいし)」の名で知られています。


 12歳で、比叡山の登り、理仙、相応に師事しまし、康保3年に、第18代天台座主(天台宗の最高の位)であり、比叡山延暦寺の中興の祖として知られています。

 比叡山の横川(よかわ)には、元三大師堂がありますが、東西両塔と鼎立させる盛況を呈しています。

  比叡山の写真
  http://www.glomaconj.com/butsuzou/meisho/kyoto/kyoto_hieizan.htm

 また、中世以降は民間において「厄除け大師」など独特の信仰を集めています。


 良源というより元三大師と呼ばれるほど、比叡山での功績が認められているいます。

 良源と対比できることではありませんが、私事で恐縮ですが、「コンサルタントのためのコンサルタント」と呼ばれます。何ごとも、石の上に三年で、見る人は、それなりに評価をしてくれるものですね。

 

■ 呑龍 子育ての願掛け

 

 どんりゅう
 弘治2年4月23日(1556年6月2日)- 元和9年8月9日(1623年9月3日)

 群馬県太田市の浄土宗大光院(だいこういん)、正式には「義重山大光院新田寺」という寺院があります。通称「子育て呑龍(こそだてどんりゅう)」もしくは「呑龍様(どんりゅうさま)」と親しまれています。

 真偽の程は定かでありませんが、徳川家康は源氏の流れを汲む新田義重の末裔であるといいます。

 慶長18年(1613年)、家康は呑龍を招聘して大光院を創建させました。境内裏には、新田義重や呑龍の墓があります。義重は九条兼実に従い法然上人に帰依しました。

 大光院は、もともとは建久6年(1195年)に、寺尾城内に建立され、家康は観智国師・土井利勝・成瀬正成に遺跡を探させ、墓石と礎石などをここに移させました。

 当時、多くの子どもが間引きといわれ、殺されていいましたが、呑龍は、これを悲しみ、これらの子どもを弟子として引き取って育てたため、後世の人々から「子育て呑龍」と慕われました。

 話は、昭和の第二次大戦前になりますが、中島飛行機で開発された百式重爆撃機という航空機がありましたが、その愛称「呑龍」でした。

 

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■【きょうの人】 0902 ■ 伊藤 博文 千円札の肖像画でおなじみ ■ 岡倉 天心 近代日本における美術史学研究の開拓者

2023-09-02 06:33:00 | 【話材】 きょうの人09月

 

  【きょうの人】 0902 ■ 伊藤 博文 千円札の肖像画でおなじみ ■ 岡倉 天心 近代日本における美術史学研究の開拓者

 

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 岡倉 天心 近代日本における美術史学研究の開拓者

 

 おかくら てんしん
 1863年2月14日(文久2年12月26日)- 1913年(大正2年)9月2日)

 日本の思想家、文人。本名は岡倉覚三(かくぞう)。幼名は岡倉角蔵。


 近代日本における美術史学研究の開拓者で、英文による著作での美術史家、美術評論家としての活動をしました。

 美術家の養成、ボストン美術館中国・日本美術部長といった多岐に亘る啓蒙活動を行い、明治以降における日本美術概念の成立に寄与しました。

「天心」は、岡倉が詩作などの際に用いた号ですが、生前には「岡倉天心」と呼ばれることはほとんどなく、岡倉覚三で通していたそうです。

 福井藩の下級藩士の父・岡倉勘右衛門は、藩命で武士の身分を捨て、福井藩が横浜に開いた商館「石川屋」の貿易商となり、その商店の角倉で生まれたことから、覚三は当初「角蔵」と名付けられました。

 東京都台東区に、岡倉天心記念公園(旧邸・日本美術院跡)があります。茨

 城県北茨城市には、五浦に日本美術院第一部を移転させて活動した岡倉天心らの業績を記念して、茨城県天心記念五浦美術館が1997年(平成9年)に設立されました。

 ニューヨークで英語による「茶の本」を出版して100年にあたる2006年の10月9日に、岡倉が心のふるさととしてこよなく愛した福井県の大本山永平寺において“岡倉天心「茶の本」出版100周年記念座談会”が行われたことは、記憶されている人も多いでしょう。

 

■ 伊藤 博文 千円札の肖像画でおなじみ

 

 いとう ひろぶみ
 1841年10月16日〈天保12年9月2日〉- 1909年〈明治42年〉10月26日

 旧千円札の肖像画でおなじみですが、長州藩の武士で、明治政府の政治家として活躍、従一位大勲位公爵を賜っています。諱は、博文(ひろぶみ、「ハクブン」)で、号は春畝(しゅんぽ)でした。貧しい農村に生まれ、幼名は利助(りすけ)でした。

 松下村塾の門弟となり、後に吉田松陰から俊英の俊を与えられ、「俊輔(しゅんすけ)」となり、さらに「春輔」と改名しました。

 幕末期の尊王攘夷・倒幕運動に参加しました。「長州ファイブ」の一人として、長州藩の公金を、半ば横領に近い形で利用して、仲間4人と共にイギリスに留学し、土木学など、実利的な学問を学びました。

 その最中に、下関戦争が勃発、急遽帰国して戦後処理に奔走しました。

 それらの実績が評価され薩長の藩閥政権内で力を伸ばし、岩倉使節団の副使を務めるなど、頭角を現しました。帰国後は、参議兼工部卿、初代兵庫県知事(官選)を務め、大日本帝国憲法の起草の中心人物となりました。

 初代内閣総理大臣になったことはよく知られていますが、その後も何回か総理大臣を務めています。
 立憲政友会を結成し、初代総裁となり、外交では日清戦争の勝利に伴う日清講和条約の起草・調印などのメンバーにもなっています。

 1909年、ハルビン駅で、朝鮮民族主義活動家の朝鮮人・安重根に暗殺され、女性問題が多かったり、死後、渋沢栄一によって幕末時の暗殺稼業が暴露されたりと、波瀾万丈の人生でもありました。


 伊藤博文は、松下村塾では、劣等生だったようです。しかし、「人の話を聴く」という点では、すばらしいものがあり、情報収集力に長じるようになったそうです。それを武器に、人脈作りの達人にもなりました。

 彼は、自分と意見を異にする人とも、人間関係を維持し、それらの人を通して、異なったモノの見方を学んだようです。彼が、総理大臣を務めたときには、自分の政敵ともいえる人達を大臣に登用するなど、人の使い方もうまかったのでしょうね。
 

 

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■【きょうの人】 0901 ■ 世阿弥 猿楽を大成、能や歌舞伎の祖形を築く ■ 新渡戸稲造 国連事務次長を務めた国際派

2023-09-01 06:33:00 | 【話材】 きょうの人09月

■【きょうの人】 0901 ■ 世阿弥 猿楽を大成、能や歌舞伎の祖形を築く ■ 新渡戸稲造 国連事務次長を務めた国際派

 

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 新渡戸稲造 国連事務次長を務めた国際派


 にとべ いなぞう
 1862年9月1日(文久2年8月8日)- 1933年(昭和8年)10月15日)

 

 日本の教育者・思想家で、農業経済学・農学の研究も行い、国際連盟事務次長も務めるほどの国際通の文化人でもありました。五千円札の肖像でもおなじみです。

 幼名・稲之助は、新渡戸家で巡行中に休息していた明治天皇から「父祖伝来の生業を継ぎ農業に勤しむべし」という主旨の言葉をかけられたことが契機となり、農学を志すようになり、札幌農学校の二期生として入学しました。

 当時はクラーク博士は帰国後でしたが、クラークの意志をたたき込まれました。それが契機で、ジョンズ・ホプキンス大学に留学、農業に経済学的な発想の必要性を痛感し、後に札幌農学校で教鞭を執ることに繋がります。

 農学校時代の愛弟子である森本厚吉が創立した東京女子経済専門学校(後の新渡戸文化短期大学)の初代校長にまた、東京女子大学初代学長をつとめるなど、教育界でも功績があります。

 

■ 世阿弥 猿楽を大成、能や歌舞伎の祖形を築く

 

 ぜあみ、世阿彌陀佛(通称は三郎、実名は元清)
 正平18年/貞治2年(1363年)? -嘉吉3年8月8日(1443年9月1日)?)

 室町時代初期の大和申楽結崎座の申楽師で、父の観阿弥(觀阿彌陀佛)とともに、現在の能や歌舞伎の祖形といわれる申楽(猿楽)を大成し、「観世流」として、今日まで受け継がれてきています。

 世阿弥の代表的な作品、『高砂』『井筒』『実盛』を含む50曲近くがあり、現在も能舞台で上演されています。彼はまた多くの書も書き残しています。

 幼名は鬼夜叉(おにやしゃ)という、怖い名前を持っています。二条良基から「藤若」の名を賜っています。

 時宗の法名「世阿弥陀仏」が略されて「世阿弥」と呼ばれるようになりました。「世」の発音は、「せ」ではなく「ぜ」と濁るのは、世阿弥をこよなく愛した足利義満の指示によるもので、正しくは「世阿彌」と書きます。

 

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