【小説】竹根好助の経営コンサルタント起業5章 中小企業を育てる 4 包容力のある経営者との再会
■ 【小説】 竹根好助の経営コンサルタント起業
私は、経営コンサルタント業で生涯現役を貫こうと思って、半世紀ほどになります。しかし、近年は心身ともに思う様にならなくなり、創業以来、右腕として私を支えてくれた竹根好助(たけねよしすけ)に、後継者として会社を任せて数年になります。 竹根は、業務報告に毎日のように私を訪れてくれます。二人とも下戸ですので、酒を酌み交わしながらではありませんが、昔話に時間を忘れて陥ってしまいます。
これからコンサルタントを目指す人の参考になればと、私の友人が、書き下ろしで小説風に文章にしてくれています。 原稿ができた分を、原則として、毎週金曜日に皆様にお届けします。
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【これまであらすじ】
竹根好助は、私の会社の後継者で、ベテランの経営コンサルタントでもあります。
その竹根が経営コンサルタントに転身する前、どのような状況で、どの様な心情で、なぜ経営コンサルタントとして再スタートを切ったのかというお話です。
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1ドルが360円の時代、すなわち1970年のことでした。入社して、まだ1年半にも満たないときに、福田商事が、アメリカ駐在事務所を開設するという重大発表がありました。
角菊貿易事業部長の推薦する佐藤ではなく、初代駐在所長に竹根が選ばれました。それを面白く思わない人もいる中で、竹根はニューヨークに赴任します。慣れない市場、おぼつかないビジネス経験の竹根は、日常業務に加え、商社マンの業務の一つであるアテンドというなれない業務もあります。苦闘の連続の竹根には、次々と難問が押し寄せてくるのです。
その竹根が経営コンサルタントに転身する前、どのような状況で、どの様な心情で、なぜ経営コンサルタントとして再スタートを切ったのかというお話です。
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1ドルが360円の時代、すなわち1970年のことでした。入社して、まだ1年半にも満たないときに、福田商事が、アメリカ駐在事務所を開設するという重大発表がありました。
角菊貿易事業部長の推薦する佐藤ではなく、初代駐在所長に竹根が選ばれました。それを面白く思わない人もいる中で、竹根はニューヨークに赴任します。慣れない市場、おぼつかないビジネス経験の竹根は、日常業務に加え、商社マンの業務の一つであるアテンドというなれない業務もあります。苦闘の連続の竹根には、次々と難問が押し寄せてくるのです。
日常業務をこなしながら、アテンドという商社マンにつきものの業務を自分なりに見つめ直す竹根です。
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◆5章 中小企業を育てる
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◆5章 中小企業を育てる
商社マンは、商品を輸出すれば良い、というのが、それまでの商社の生き方でした。
はたしてそれで良いのか、疑問に纏われながらの竹根好助でした。その竹根が、何とか現状で仕事をしながら活路を見いだそうと考えていました。
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※ 直前号をお読みくださるとストーリーが続きます。
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◆5-4 包容力のある経営者との再会
竹根の業務と並行して、その後も日本からアメリカ詣でと称して、何人かの経営者が訪問してきた。仕事に熱中することで、東京本社で竹根の業務を支援してくれる、相本かほりのことを、気持ちとは裏腹に忘れようとした。かおりからの業務連絡の手紙を受け取るたびに、暗い気持ちになるのは、以前とは全く反対の感情である。失恋とは、かくも自分の感情をマイナス方向に向けてしまうのかと、今更ながら思うのである。
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次に来るアメリカ詣での中の一人が、福田商事の資本が入っているケント光学の北野原社長であった。ニューヨークに着いたのが四月も末近くである。四月にしては珍しく吹雪く中、飛行機の着陸が一時間延びたものの、幸いケネディ国際空港に着陸できた。
空港に迎えに出た竹根の顔を見ると、長旅の疲れも見せず、六十歳を超えているとは思えない元気な笑顔を北野原は投げかけてくれた。竹根がアメリカに出張するまえに、工場で加工実習まで体験させてくれた唯一の社長である。竹根の両手を、小柄な北野原ががっしりと握った。竹根には、なにか感動するものがあった。
竹根はご老体の長旅を気遣って、ホテルまで連れて行ってそのまま別れるつもりであった。
「竹根さん、この寒空の下に俺を一人にする気かね」
「空の下ではなく、ホテルの中ですよ、社長」と冗談を言うと、「ニューヨークのこの寒い時期に、なんで俺が来たのかわかるかい?」と真剣な眼差しに引き込まれて、最上階のラウンジで酒の相手をすることになった。
下戸である、竹根にアルコールを強要はしないが、酒が飲めないと商社では出世できないということを、アルコールが廻るにつれ、くどくどと言い続けた。竹根には、北野原が自分に期待をしていることが、言葉がなくてもわかった。
*
翌日は、日曜日であった。約束の時間に北野原を迎えに行き、北野原が希望していた自然博物館に連れて行った。連れて行ったことは行ったが、むしろ北野原の方がよく知っている。聞くところによると北野原は、フルブライト留学生第一号の一人で、ニューヨークには、終戦後まもなく数ヶ月住んでいたというのである。それだけではなく、博物学にも通じていて、それが顕微鏡を製作することにつながり、福田商事の学校ルートで顕微鏡を販売している。顕微鏡開発の苦労、顕微鏡が日本を代表する輸出商品になるまでの業界の苦労、福田商事の販売ルートに乗せるまでの苦労、熱く熱く語る北野原を見て、自分にはこのように熱く語れるモノを一つでも持っているだろうかと思うと、自分の小人さを思い知らされた。
ケントという社名は、北野原が学生の時に製図の授業で使った製図器のブランドだそうだ。それは福田商事の商品であることは、当然竹根は知っている。ケント製図器がなければ、今の会社も、今の社名もなかったとしんみりと語ってくれた。北野原の福田商事に対する思いを感じ取った。
<続く>
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◆5-4 包容力のある経営者との再会
竹根の業務と並行して、その後も日本からアメリカ詣でと称して、何人かの経営者が訪問してきた。仕事に熱中することで、東京本社で竹根の業務を支援してくれる、相本かほりのことを、気持ちとは裏腹に忘れようとした。かおりからの業務連絡の手紙を受け取るたびに、暗い気持ちになるのは、以前とは全く反対の感情である。失恋とは、かくも自分の感情をマイナス方向に向けてしまうのかと、今更ながら思うのである。
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次に来るアメリカ詣での中の一人が、福田商事の資本が入っているケント光学の北野原社長であった。ニューヨークに着いたのが四月も末近くである。四月にしては珍しく吹雪く中、飛行機の着陸が一時間延びたものの、幸いケネディ国際空港に着陸できた。
空港に迎えに出た竹根の顔を見ると、長旅の疲れも見せず、六十歳を超えているとは思えない元気な笑顔を北野原は投げかけてくれた。竹根がアメリカに出張するまえに、工場で加工実習まで体験させてくれた唯一の社長である。竹根の両手を、小柄な北野原ががっしりと握った。竹根には、なにか感動するものがあった。
竹根はご老体の長旅を気遣って、ホテルまで連れて行ってそのまま別れるつもりであった。
「竹根さん、この寒空の下に俺を一人にする気かね」
「空の下ではなく、ホテルの中ですよ、社長」と冗談を言うと、「ニューヨークのこの寒い時期に、なんで俺が来たのかわかるかい?」と真剣な眼差しに引き込まれて、最上階のラウンジで酒の相手をすることになった。
下戸である、竹根にアルコールを強要はしないが、酒が飲めないと商社では出世できないということを、アルコールが廻るにつれ、くどくどと言い続けた。竹根には、北野原が自分に期待をしていることが、言葉がなくてもわかった。
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翌日は、日曜日であった。約束の時間に北野原を迎えに行き、北野原が希望していた自然博物館に連れて行った。連れて行ったことは行ったが、むしろ北野原の方がよく知っている。聞くところによると北野原は、フルブライト留学生第一号の一人で、ニューヨークには、終戦後まもなく数ヶ月住んでいたというのである。それだけではなく、博物学にも通じていて、それが顕微鏡を製作することにつながり、福田商事の学校ルートで顕微鏡を販売している。顕微鏡開発の苦労、顕微鏡が日本を代表する輸出商品になるまでの業界の苦労、福田商事の販売ルートに乗せるまでの苦労、熱く熱く語る北野原を見て、自分にはこのように熱く語れるモノを一つでも持っているだろうかと思うと、自分の小人さを思い知らされた。
ケントという社名は、北野原が学生の時に製図の授業で使った製図器のブランドだそうだ。それは福田商事の商品であることは、当然竹根は知っている。ケント製図器がなければ、今の会社も、今の社名もなかったとしんみりと語ってくれた。北野原の福田商事に対する思いを感じ取った。
<続く>
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