内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

哲学の方法としての「膨張」(その二)― 人格の深層への質的拡張

2017-06-15 14:28:42 | 哲学

 ベルクソンにおいて哲学的直観の可能性の条件である膨張とはどのような変化を指しているのか。何が膨張するのか。膨張するとはどういうことなのか。
 『物質と記憶』第七版(1911)以降の冒頭に置かれるようになった緒言の中で、「生への注意」(« l’attention à la vie »)が話題となっている箇所に上記の問いに対する答えを見出すための鍵の一つがある。
 心理的生は、生への注意の度合い応じて、それが行動へと直結している場合もあれば、行動にはすぐには結びつかない場合もある。つまり、生への注意の度合いに応じて、心理的生には可変的な層があるということである。
 これが『物質と記憶』の主導的な考え方の一つであると述べた後に dilatation という語を含んだ一文が登場する。クレティアンは部分的にしか引用していないその文の全体を読んでみよう。

Ce que l’on tient d’ordinaire pour une plus grande complication de l’état psychologique nous apparaît, de notre point de vue, comme une plus grande dilatation de notre personnalité tout entière qui, normalement resserrée par l’action, s’étend d’autant plus que se desserre davantage l’état où elle se laisse comprimer et, toujours indivisée, s’étale sur une surface d’autant plus considérable (Matière et mémoire, PUF, coll. « Quadrige Grands textes », 2008, p. 7).

 通常私たちが心理状態のより大きな錯綜と見なしているものは、ベルクソンによれば、私たちの人格 personnalité 全体のさらなる膨張(あるいは拡張)ということになる。私たちの人格は、普通の状態では行動によって制約されている。ところが、私たちの人格は、それを締めつけている箍が緩めば緩むだけ、伸び広がる。分割されることなく、より広大な面へと広がる。
 ベルクソンは、『物質と記憶』の別の箇所では、意志の膨張(拡張)や知性のそれについても語っている。さらに、別の箇所では、同一面での膨張(拡張)よりも膨張(拡張)によって生じた他の面への深化に力点が置かれてもいる。哲学的直観の可能性の条件となるのは、同一面での量的膨張(拡張)ではなく、より深い層への質的膨張(拡張)だからであろう。