知性によって明確な形態として現れる諸事物の周りのぼんやりとした辺縁域に見られる不分明な諸要素の中にこそ、私たちの思考の知的形態を拡張するための指標を探しに行かなくてはならない。その中にこそ、私たちが私たち自身を超えていくために必要な飛躍の迸りが汲み取られるだろう。
C’est donc là que nous devrons aller chercher des indications pour dilater la forme intellectuelle de notre pensée ; c’est là que nous puiserons l’élan nécessaire pour nous hausser au-dessus de nous-mêmes (Bergson, L’évolution créatrice, op. cit., p. 49).
なぜなら、生命の現実は、創造的であり、自ら自己拡張し、自己超越する結果を産出するからである。生命あるものの自己経験は、一なる生命の経験と不可分である。
生命をその生成の現場で捉える直観的思考についてベルクソンは次のように述べている。
Par la communication sympathique qu’elle établira entre nous et le reste des vivants, par la dilatation qu’elle obtiendra de notre conscience, elle nous introduira dans le domaine propre de la vie, qui est compénétration réciproque, création indéfiniment continuée (op. cit., p. 179).
直観が私たちとその他の生物たちとの間に確立する共感的コミュニケーションによって、私たちの意識から直観が獲得する拡張によって、直観は私たちを生命固有の領域へと導き入れる。その生命固有の領域では、すべてが互に相互浸透し合い、無限に創造が続く。
クレティアンは、もちろん、ベルクソン哲学に見られるこのようないささか性急とも見える全一なるものへの合一に対する批判を十二分に承知している。
そのような批判的態度について私がすぐに思い出す例の一つは、ルイ・ラヴェルがベルクソン哲学の紹介に際して、『創造的進化』をほとんど無視して、『物質と記憶』と『道徳と宗教の二源泉』と深い連続性を強調していたことである。
それはともかく、クレティアンが La joie spacieuse の序論で強調していることは、ベルクソンが dilatation という言葉を、その語源を見失うことなく、しかし、自身の哲学にとって決定的に重要な用語にまで「拡張」して使っていることである。クレティアンによれば、これは哲学史において唯一の例であり、多くのことを私たちに語ってくれる。