修士課程では、来年度前期、一・二年合同演習と修士二年の演習「日本思想史における世界観と自然観」を担当する。
合同演習は、毎年二月にストラスブール大学と CEEJA で行われる法政大学哲学科の学生たちとの共同ゼミの準備のための演習である。一昨年から、週一回二時間、十二回の演習が組めるようになり、準備時間がそれ以前の倍になって、それだけ入念な準備ができるようになった。
毎年、法政側とこちら側とで九月から翌年一月まで、共通のテキストをそれぞれに読み、二月の共同ゼミの際の発表を準備する。法政側は大体十数名の参加者。三つのグループに分かれ、一つのグループは、ストラスブールに来る直前のハイデルベルグ大学での共同ゼミで発表し、残り二つのグループがストラスブールで発表する。こちら側は、よほど学生数が多くないかぎり、原則個人発表。それは、日本語能力の個人差が大きく、グループ発表にしてしまうと、どうしても日本語能力にまさる学生が中心になってしまい、それ以外の学生が影に隠れてしまうからだ。一学期間、毎週全員個別に発表練習をさせて鍛える。発表原稿は何度も書き直させる。
来年度の共通テキストとして、レヴィ=ストロースの『月の裏側 日本文化への視角』(川田順造訳、中央公論社、2014年)を選び、昨日先方のA先生にお伝えした。レヴィ=ストロースの著作、しかも日本文化を直接の対象とした著作ならば、先方の哲学科の学生たちにとっても、こちらの学生たちにとっても、共同討議するのに相応しいテーマを見つけやすいだろうというのが主な選択理由である。
仏語原版 L’autre face de la lune は、2011年に Seuil 社から出版されている。この原版は、レヴィ=ストロースの親しい友人の一人でもあった川田先生ご自身が編集され、序文を書かれている。巻末には両者の対談も収録されている。日本語版は、川田先生ご自身がお訳しになられているだけでなく、原版本文に見られる記述の誤りや説明不足を補う貴重な注も付加されている。
そして、来年度は、初めての試みとして、二月の共同ゼミ以前に、何回かスカイプを使って日仏学生間の予備的ディスカッションを演習の中に組み込みたいと考えている。
修士二年の演習「日本思想史における世界観と自然観」では、読み応えのある日本語のテキストを読ませたい。しかし、その選択はなかなかに難しい。
最初の年は家永三郎『日本思想史における宗教的自然観』を選んだ。その年の四名の学生たちはとても優秀だったのだが、何しろ今ではめったに見かけないような漢字がよく出てくるし、古代中世の古典から縱橫に引用されているので、それをいちいち解説しているうちにどんどん時間がたってしまい、一回二時間六回の演習で十頁ほどしか読めなかった。翌年は、丸山真男「超国家主義の論理と心理」を選択。これも手強かったが、とにかく全文読み、三名の学生たちが分担して全文を訳してくれた。そして、去年が加藤周一『日本文化における時間と空間』であった。内容的には学生たちも関心を持ちやすいだろうと思って選んだのだが、加藤最晩年のこの著作は、議論が杜撰で、自分の主張に都合のいい例だけを挙げて牽強付会、論理的矛盾もあちこちに見られ、私自身読んでいて段々不満が高じてきてしまい、最後には本書を選んだことを後悔するに至ってしまった。学生たちにはちょっと高い本を買わせることになってしまって本当に申し訳ないことをしたと反省している。
さて、来年度は何を読ませるか。仏訳のあるものに限定する必要はない(というか、むしろ仏訳はないほうがいい)ので、あまりにも選択肢が多く、迷ってしまう。古典的名著のごく一部を一字一句ゆるがせにせずに読み込み、そこに籠められた思想をしっかりと読み解くのも一つのやり方だろう。他方、比較的文章が易しい新書一冊を、そこに提起されている問題そのものを自分の頭で考えながら批判的に読む訓練をするというやり方もある。ただ、どちらにしても、学生たちにはコピーではなく、原書を買わせたいので、あまり高価な本は選べない。しかし、仮に千円以下の文庫か新書に限ったとしても、なお膨大な候補の中から一冊選ぶのは容易でないことにかわりはない。
などと、あれこれの著作家や本のことを思い浮かべつつ、昨日から愚図々々と考えあぐねていたのだが、学部の講義内容との関連性も考慮して、末木文美士『日本宗教史』(岩波新書、2006年)か田尻祐一郎『江戸の思想史―人物・方法・連関』(中公新書、2011年)のいずれかにしようというところまでは一応絞れた。
と書いた途端に、二十世紀の名著の中から選ぶという選択肢をまだすっかり捨てきれていない自分に気づく始末で、最終決定はもう少し考えてからにする。