内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

身体の詩学、あるいは世界変容としてのロゴファニー(logophanie)

2017-06-07 18:34:56 | 哲学

 来年の三月、「身体とメッセージ / 翻訳と翻案の構造」と題された国際演劇・視覚芸術学会シンポジウムがストラスブール大学で三日間に渡って開催される。主催者から研究発表しないかとの誘いを先月末に受け、折角の機会だから発表したいと思っている。今月末までに発表タイトルを送ることになっていて、ここ数日ずっと発表タイトル並びに内容について考えている。
 今のところ、タイトルは「身体の詩学」(poétique du corps)にしようかと思っている。このタイトルの下、今はまだ漠然としているが、次のような問題を考えてみたい。
 言葉は、身体の発声器官によってある空間内に声となって響き、その声が人の心身に触れるとき、そのほとんど身体的な接触によって何かが人から人へと伝わる。その伝わるものはいわゆる意味に還元することはできない。声の分有によって何が共有されるのか。ある言葉が詩になるのはどのようにしてなのか。
 準備ノートも取り始めた。だいたいこういうときは、鍵になりそうな言葉を思いつくままに書きつけることから始める。
 そのノートの最初に書きつけた言葉は「ロゴファニー logophanie」である。ロベール仏語大辞典にも載っていない言葉だが、5月23日の記事で言及した TLFi(Le Trésoir de la Langue Française informatisé)には載っている。「神の御言葉の受肉」(incarnation du verbe divin)ということである。しかし、それは Littré  の記載に準拠している。そこには「神学用語。御言葉の顕現。その受肉」(Terme de théologie. La manifestation du Verbe ; son incarnation)とある。
 この言葉は、ヴィトール・フォン・ヴァイツゼッカーの『パトゾフィー』(Pathosophie)の鍵言葉の一つでもあるのだが、ヴァイツゼッカーに準拠してこの言葉を用いようというわけではない。むしろそれに触発されながらも、言葉が声となって響くときに起こりうる世界変容をロゴファニーと呼びたいのである。
 しかし、まだこれは思いつきの域を出ない。この問題について月末まで考え続ける。