著者の小林敏明さんから岩波新書の今月の新刊『夏目漱石と西田幾多郎』を岩波書店を通じご恵送いただいた。
漱石と西田の比較は私自身かねてより興味を持っているテーマであり、実際、拙ブログの2014年1月14日の記事で、俳句と短歌の表現としての質的差異という観点から両者の言語表現者としての資質の比較考察を試みてもおり、多大の興味を持って本書を読み始めた。
しかし、本書の内容についての立ち入った紹介は別の機会に譲るとして、今日は読み始めてすぐに陥ってしまった私の精神状態をそれとして記録しておきたい。
第1章「没落する家から生まれる独立の精神」を読みながら、漱石と西田がともに模範としての父親像を持っていないことに言及している箇所を読んで、本書の内容とは関係なく、私自身におけるそのような父親像の欠落に改めて思いを致し、暗然としてしまったのである。
漱石と西田の場合は、模範としての父親像の欠損がかえって両者における独立不羈の精神の形成に積極的に作用したと言えるとすれば、両者に我が身を引き比べるなどという不遜な気持ちからではなく、単に自分自身を振り返ってのことに過ぎないが、私の場合、早くに父を亡くしたことが完全に人格形成に否定的に働いてしまっていることを認めざるをえない。
漱石や西田のような、模範としての父親像の欠損はどのような結果をもたらすのだろうか。理屈だけをいえば、取り込むべき父親がなくて超自我が成立しにくければ、その分自己制御が弱くなる。自分の行為を戒め、ときには罰を与えるような内面的規範が弱いからである。(29頁)
欠損している父親像には代替者が可能であるし、超自我の形成の弱さは必ずしも否定的に作用するとは限らない、と断った上で、小林さんはこう続ける。
弱い自己制御は逆に自己主張や反発心と合流しうる。もっと積極的に表現するなら、権威にとらわれない自由独立の精神が生まれやすいということである。自立のためには、どのみち心理的な「父親殺し」が必要だとは、同じく精神分析理論の基本知識である。(30頁)
この精神分析理論をそのまま我が身に適用するならば、超自我の形成の弱さが内面的規範意識を薄弱なものとし、しかも自立のために必要な心理的「父親殺し」が未遂に終わっているために、今だに精神的に自立できないでいるという、泣くに泣けない惨めな結果をもたらしていると自己診断を下さざるを得ない。
これからの残り少ない人生の中でできることといえば、そのような自分をまずはそれとしてよく再認識し、そのような自分が原因で公私の生活で発生すであろう否定的な事態に過度に反応することなく、周囲への迷惑を最小限度にとどめることくらいであろう。