内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

西洋精神史における「喜びの系譜学」― ジャン=ルイ・クレティアン『伸び広がる喜び』の企図

2017-06-10 18:41:12 | 哲学

 喜びが沸き起こるとき、すべてが伸び広がる。呼吸はより大きく深くなり、それまで縮こまって自分が居る場所を占めていただけの私たちの体は、喜びとともに身を起こし、生き生きと動き出す。飛び上がり、走り、踊りたくなる。なぜなら、喜びとともに、伸び広がった空間の中で、私たちはより活動的になるから。
 それまで細く締めつけられるようだった喉も伸び広がり、歓喜の叫びを上げ、歌い、大きな声で笑いたくなる。笑ったり、泣いたり、泣きながら笑ったり、笑いながら泣いたり、どうだってかまわない。それらの過剰は到来したものの過剰に見合う応答なのだ。私たちの顔は他者に向かって開かれ、眼差しは輝く。
 何が到来したのか。それは〈未-来〉だ。しかし、それはただ投射され、計算され、予測され、想像されただけではない。それは今ここに生じている。この〈今〉、この〈ここ〉は、今ここに限局され得ないからこそ、すべては伸び広がる。
 喜びにあっては、〈そこ〉が〈ここ〉に来る。〈そこ〉が〈ここ〉に成る。しかし、それは、〈そこ〉が〈ここ〉で消尽されて終わることでも、〈ここ〉で完遂されて終わることでもない。だから、いや増しに増し、〈ここ〉から出発しなければならない。それは、〈ここ〉を逃れるためではない。それは、〈そこ〉がここで己自身を開くという約束が〈ここ〉で果たされるためだ。
 喜びは一つの状態ではない。それは、働きであり、動きであり、生命の起動である。この働きは、世界の人々に共通の働きであり、心理学の概念の枠組みや「主体」の思考の中などに閉じ込められうるものではない。喜びは、実際、空間を与え、領野を拓き、活動をもたらす。喜びのうちにあるとは、突如眼前に開かれた世界の大海原に伸びやかに漕ぎいでているということだ。喜びの経験は、常に、広がりつつある空間の経験だ。
 それは自己空間なのか。世界空間なのか。内的空間なのか、外的空間なのか。喜びの喜びたる所以は、このような二元論的区別をもはや役に立たないどうでもよいものにしてしまうことだ。それは、自己と世界との不可分的・同時的経験なのだ。
 このような喜びの経験が西洋精神史の中で dilatation(膨張・拡張・伸び広がり)という語(ラテン語では dilatatio)を使って記述されているテキストを、アウグスティヌスから近代に至るまで、主に神秘家と詩人たちの作品の中に探索することで、一つの「喜びの系譜学」を試みたのが Jean-Louis Chrétien, La joie spacieuse. Essai sur la dilatation, Éditions de Minuit, 2007 である。