六月十日の記事で取り上げたジャン=ルイ・クレティアンの La joie spacieuse は副題が Essai sur la dilatation となっている。
この « dilatation » という語は「膨らむこと、広がること;(心などが)晴れ晴れすること」(『小学館ロベール仏和大辞典』)という一般的な意味をもっており、 « dilatation de l’âme » と言えば、「(喜びなどで)胸が膨らむこと、心が晴れ晴れすること」である。喜びを感じるとき、日本語でも同様な身体感覚表現を使うことからも、これが人間にとってかなり普遍的な感覚であることがわかる。
この語は、物理学では「膨張」を意味し、数学では「膨張変換」、医学では身体器官の「拡張、拡大」を意味する。
哲学ではどうであろうか。哲学における「膨張(拡張)?」と首を傾げてしまう方も多いだろう。もちろん、この語はいわゆる哲学用語には属さない。しかし、このフランス語をまさに自身の哲学のキーワードとして使った哲学者がいる。それがベルクソンである。以下、クレティアンの上掲書の記述を辿ってみる。
ベルクソン哲学の際立った特異性の一つは、「膨張(拡張)」がその哲学の方法そのものの名になっていることである。この語が哲学(すること)の中心的な問題を示している唯一の例がベルクソン哲学である。ベルクソン哲学において、膨張は直観の別名に他ならない。もちろんそれはこの語に新しい意味を与えてのことではあるが。
しかし、膨張と直観とは単に併用されているのではない。なぜなら、膨張は直観によって到達し生きることが可能になるものを意味しているのではなく、直観の形成のされ方を意味しているからである。つまり、経験のそれまで隠されいた諸次元に到達しそれを生きることが直観によって可能になるその仕方を意味しているからである。
一言で言うと、膨張はベルクソンにとって直観の可能性の条件なのである。哲学固有の膨張はベルクソンにおいて特別な意味を与えられている。それは芸術によってもたらされる膨張(拡張)とは区別される。哲学における膨張はより普遍的なことがらだからである。それは、他方、科学が与えることができない喜びの源泉である。
これだけ読んでもすぐには納得できないし、よくわからない、と思われる方もいらっしゃるであろう。私もその一人である。明日の記事では、この続きを読んでみよう。そこにはベルクソンからの引用も出てくるから、より直接的にベルクソンの所説を捉えることができるだろう。