内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

来年度前期に担当する学部講義:古代史と上代文学史 ― その内容・方法・目標

2017-06-29 12:37:12 | 雑感

 今日は、九月からの来年度前期に担当する学部講義の内容について書き留めておく。そうするのは、昨日の研究計画の場合と同様、自分の頭の中を整理しておくためというのが第一目的で、本来人様にお見せするような内容ではないのだが、ブログの記事として公にすることで、ちょっと大げさに言えば、当面の研究・教育に対する態度決定を自分に課すという意図もある。
 ちなみに、弊学には日本の大学のようなシラバスがない。実施しているフランスの大学もなくはないが、まだ少ないし、日本のそれより簡略なものである。
 学部の前期担当講義は、二年生対象の古代史(縄文・弥生から奈良時代まで)と上代文学史との二つ。両者は一つの教育ユニット unité d’enseignement を構成していて、教育内容の多様性という観点からは二人の教員がそれぞれに担当することが望ましいのだが、来年度に限っては、再来年度のカリキュラムの大幅な改変を視野に入れて、そのための移行措置をいくつか教員間で分担する必要があり、やむを得ず来年度は私一人でユニットを担当することにした。
 もっとも三年前の赴任一年目も同様だったから、これが初めてのことではない。ただ、そのときは、こちらがまだ日本学科のシステムに慣れていなかったこともあり、二つの講義内容が互にかぶりがちになってしまったことがあり、学生たちにしてみれば、同じ一人の教員が同じようなことを週に二回も話すのを聞かされて、さぞうんざりしたことであろうと反省した。
 来年度は状況がかなり異なる。まず、この三年間でかなり講義資料のストックができたので、古代史と上代文学史とをそれぞれ別内容の講義として行うのに、少なくとも資料の点ではもう困らない。それに、両方とも再来年度からはもうそのままの形では残らないということがある。現行カリキュラムは著しく歴史と文学に偏っているという弊があり、再来年度からは、学部三年間のそれらの講義の時間数を半分に減らすことになるからである。そこで、来年度は、いわば移行期間として、科目編成は現行のまま、内容については、再来年度からのカリキュラムの基本方針にそって、実験的な授業を一部の講義で実施する。一つのユニットを私一人で担当することにしたのには、そうすることでより自由に実験的授業を行うことができるだろうという理由もあった。
 具体的にはどうするか。知識の吸収とテキストの読解を中心とした従来のやり方のかわりに、提起された問題に対して、与えられた資料の分析とその結果得られた情報の総合とを通じてその解答に至るまでのプロセスのモデルを提示し、学生たち自身にそのモデルを別の問題に適用する練習を課す。
 内容的には、古代史は、日本人の起源の多様性に関する複数の仮説を提示し、いわゆる「日本的なもの」をその起源から再考することから始める。そして、日本古代王権の成立過程を東アジア世界という大きなコンテキストの中で捉え、特に対外的危機と国家意識の不可分性を考察し、さらには、神話の政治的機能にも注意する。学期の後半には、学生たちに応用問題を与えて発表させる。
 上代文学史は、日本における文学の誕生という大きな問題設定の中で、呪術・神儀・神話・歌謡に対して詩歌が自立性(indépendance)と自律性(autonomie)を獲得していく過程をまず見る。そして、万葉集から実例を挙げながら、上代を通じて起こる詩歌の質的変容の諸段階を辿る。それと並行して、万葉仮名という異言語の文字体系を転用した表記体系がもたらしたであろう特異な文字意識・言語意識についても実例を挙げて考察する。さらには万葉集に見られる古代人の人間観・世界観・自然観・宗教観等を言語表現に即して浮かび上がらせていく。このようにして、学生たちには、詩歌を、作品鑑賞の対象としてではなく、上記のような諸問題を解くための資料として読み解く方法を身につけてもらいたいと思っている。
 どちらの講義も、考察対象についての知識の習得や関連する日本語資料の読解・翻訳が目的ではなく、問題解決のための方法とその適用のために必要とされる一連の手続きをそれとして自覚的に習得・実践・応用することがその学習目標となる。