内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

小豆マニア ― 『老来瘋癲日録』より

2021-02-06 23:59:59 | 雑感

 立春を過ぎて三日経つ。ここのところ雨が多い。寒さは少し緩んだが、日中も空は雨雲に覆われていて、降らぬとも暗い。たまに雲間から陽の射すこともあるが、真昼でも書斎の灯りはつけたまま。先月にはかなり雪が降ったこともあり、市中の川は例年になく増水し泥流で濁り、市の中心部の川岸の遊歩道は一部冠水している。
 寒気の中にかすかな春の兆しが感じられないわけではない。ただ、新しい芽吹きの季節への思いが強まる一方、出口の見えないパンデミックによる社会全体の抑圧状態と閉塞感は一向に解消しない。いつになったら終息に向かうのか、小康状態はあっても終息はありえないのか、考えても答えは出ない。諸家の諸説を追うのにも疲れた。
 話は変わる。老生は若年より無類のあんこ好きである。汁粉も善哉にも目がない。こちらでも手に入らないわけではない。だが、種類は少なく、品質もせいぜい中程度。それに日本では考えられない高値がついているから、買う気になれない。しかし、もう一年以上小豆を甘く煮たものを食しておらず、とうとう禁断症状が出始めた。どんな症状かというと、夢にあんこやどら焼きや汁粉あるいは善哉が出てきて、しかもそれに手が届かない。これは拷問だ。もう我慢できない。
 しかし、馬鹿馬鹿しいほどの高値を払ってまで買う気にはなれない。もう自分で小豆を煮るしかないと覚悟を決めた(って、大袈裟ですねぇ)。ネットショップで小豆を探した。あるにはある。しかし値段にかなりの開きがある。まあこれくらいなら失敗してもそう悔やみはしないであろうという程度の品を購入した。1,5キロで15ユーロ。産地はわからない。注文して十日ほどで届いた。産地は英国とあり、ぎょっとした。でもねぇ、まさかコロナウイルスの変異種とはカンケイないでしょ。袋の記述を見ると、インド料理用らしい。かなり大粒だ。なんか怪しげだなぁと不安になる。でも、Azuki と明記してある。確かに小豆には違いない。
 とにかく、早速煮てみることにした。以前一時帰国の折、日本で買った小豆を持ち帰って煮たことはあるから、一応手順は心得ている。しかし、念のためにネットで小豆の煮方を検索した。ヒットした数え切れないほどのレシピ・サイトの中から説明が比較的明快なのを選び、それに従って三百グラム煮た。
 一回目は期待した結果が得られなかった。かなり時間をかけて煮たのに、皮が充分に柔らかくなっていない。中身は一応芯まで柔らかくなっているが、煮汁が濁り、何度も灰汁をすくったのに、味に若干渋味がのこってしまった。まあ、食べられなくはなかったが。善哉で何杯か食べた後、残りは煮つめてつぶしあんにした。
 二回目は、別のサイトで見つけたより丁寧な煮方を試みた。二回に分けて煮る。一回目は沸騰させたあとに弱火にして五分煮る。火を止める。三十分蒸らした後、煮汁を捨てる。これが渋抜きだ。水を切った小豆をまた鍋に戻し、水を加え、ゆっくりと煮込む。こうすると灰汁がもうほとんど出ない。一時間も経たないうちに皮から芯まで指で軽く触るだけで砕けるほどにやわからくなった。吉兆である。煮汁も澄んでいる。結果は、感動の美味であった。
 私はもう小豆なしでは生きていけません。