内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

マッカーサーと天皇との会見は三木清の獄死の翌日だった ― ボタンの掛け違いから始まった戦後

2021-02-09 19:23:41 | 読游摘録

 奥平康弘の『治安維持法』(岩波現代文庫 2006年 初版1977年)のエピローグ「治安維持法の廃止」には、三木清の獄死前後のマッカーサー司令部の日本当局に対する動きについて二頁ほどの記述がある。昨日の記事で引用した日高六郎の『戦後思想を考える』の三木の獄死をめぐる記述を当時の資料からの引用も含めて補うことになるので、講義ノート代わりにここにその記述を書き写しておく。

 政治犯の釈放については、日本当局のサボタージュを防ぐためか、「目下拘束又は収監中の若(しく)は『保護又は観察』下にある一切の者」を釈放するよう指示しているが、それでも足らないとみてか「拘束、収監、保護又は観察中ではないが自由の制限せられて居る者も亦同じ」と念を押している。マ司令部は、これら該当者の釈放を一〇月一〇日までに「完全に実施しなければならない」と命じた。
 この覚書に先立ち、アメリカ政府は九月二二日づけで「降伏後における米国の初期の対日方針」を出していた。それは、ただちに日本の新聞にも報ぜられたところである。そこには「人種、国籍、信仰又ハ政治的見解ヲ理由ニ差別待遇ヲ規定スル法律、命令及規則ハ廃止セラルベシ又本文書ニ述ベラレタル諸目的及諸政策ト矛盾スルモノハ廃止、停止又ハ必要ニ応ジ修正セラルベシ此等諸法規ノ実施ヲ特ニ其ノ任務トスル諸機関ハ廃止又ハ適宜改組セラルベシ政治的理由ニ因リ日本国当局ニ依リ不法ニ監禁セラレ居ル者ハ釈放セラルベシ……」とあった。米国がこのような方針をもっていることを知りながら、日本政府は無為にすごしていた。そればかりではない。九月二六日、高名な哲学者三木清が疥癬および栄養失調症のため拘置所で死亡するという事件のごときが発生し、占領軍を驚かせた。三木は、この年三月はじめ検挙取調べ中のところを逃走した高倉輝の逃走行為を援助した容疑で、三月末に検挙され、警察の留置場をへて六月なかば拘置所へ移されていたのである。敗戦と同時に釈放され適切な治療をうければ、死亡をのがれえたであろうことは明らかであった。この事故は、占領軍が前記覚書を出すひとつのきっかけであったといわれる。
 三木の死亡直後、九月二九日の各新聞には、ノーネクタイ・開襟シャツを着用し腰に手をあてリラックス姿のマッカーサーと、モーニングに身をかためコチコチに緊張した姿の天皇の写真が掲載された。勝者と敗者とのコントラストを歴然と反映したこの写真は、従来の天皇のイメージと決定的に異なるものを表現していた。その意味で天皇の「尊厳」をいちじるしくきずつけた。内務大臣山崎巌は、ただちに新聞紙法にもとづき掲載新聞に販売頒布禁止処分をおこなった。このときの新聞面にたまたま、天皇が名指しで特定の者(東条英機)を非難している発言がのせられており、天皇がこういう発言をするわけがない、というのが発禁処分のおもてむきの理由にされた。しかし、件の写真掲載が本当の理由であるのは、うたがいない。どちらにしても、この措置により占領軍は、あらためて日本の警察が出版物についての検閲権を保持しつづけている事実に、びっくりした。占領軍はただちに発禁処分を撤回させるとともに、マッカーサーと天皇の会見がおこなわれた九月二七日にまでさかのぼって、その日づけで、新聞紙法などの廃止をもとめると同時に、発売頒布禁止処分などの権限行使の停止を指示したのであった。(二八五-二八六頁)

 マッカーサーと天皇との会見が三木清の獄死の翌日だったということは何かとても象徴的なことのような気がする。戦後日本は大事なところでボタンの掛け違いから始まっており、それが掛け直されることなく今日まで来てしまったのではないだろうか。