ちゃんと調べたわけではないが、ファン・ゴッホを日本に初めて紹介したのは白樺派の人たちであり、特に武者小路実篤は熱狂的だったようで、友人の実業家にゴッホの絵を購入することを懇請したりまでしている。文芸雑誌『白樺』(明治四三年 一九一〇年創刊)のバックナンバーを調べれば、いつゴッホが初めて紹介されたかわかるはずだ。『白樺』はロダンやセザンヌも日本に初めて紹介した。これらの紹介が大正期の美術界に与えた影響の大きさは言うまでもないが、同期の文芸・思想にも少なからぬ影響を及ぼしたことが阿部次郎の『三太郎の日記』を読むとよくわかる。
ゴッホへの言及が見られるのは、『第壱』の「十六 個性、芸術、自然」と『第弐』の「七 意義を明らかにす」においてである。それらの箇所を読むと、ゴッホの最初の紹介から四年足らずの間にゴッホの作品の特徴についてかなり立ち入った考察ができるようになっていることがわかる。しかし、当時ゴッホの作品の実物を観ることはまだできなかったはずである。当時見ることができた図版のカラー印刷の精度が高かったとも思えない。阿部のゴッホについての考察は確かに観念的で、個々の作品の分析にはなりえていない。その考察は、ゴッホの画家としての特異性について論じた文章に基づいているのではないかと推測される。あるいは学生時代から私淑していたケーベル先生から何らかの教示を受けたのでもあろうか。
どんな調子でゴッホの作品を論じているか、一節だけ引いておこう。『第壱』の「十六 個性、芸術、自然」の第六節からの引用である。
私の見るところではいわゆる表現派の代表者ファン・ゴッホのごときも実によく自然の心をつかみ、物の精を活かした画家であった。ゴッホの強烈なる個性が常に画面の上に渦巻いて、その中心情調をなしていることはいまさらいうまでもないことであるが、個性が猛烈に活きているということは物の虐殺を意味するとはかぎらない。彼の描く着物は暖かに人の身体を愛撫する、手触りの新鮮な毛織りである。彼の火は農婦の手にする鍋の下に暖かに燃えた。木の骨に革の腰掛をつけた椅子も、ガタガタの硝子窓も、彼の絵の中にはすべて活きた。彼の天を焼かんとするサイプレスも、ゴッホの目には確かにあのように恐ろしい心を語ったに違いない。ゴッホは自然を心の横溢と見た。そうして自分も自然と一つになって燃え上がった。しかし私はゴッホの絵の前に、自然か自己かのディレンマを見ることができない。自己表現のエゴイズムが自然と物とを虐待していることを見ることができない。哲学的にいえばゴッホの自然に生命を付与したものはもとよりその特色ある個性である。しかし芸術家ゴッホは自ら生命を付与した自然の前に脆いた。彼の活かさんとしたところは、おそらくは自己でなくて自然であったであろう。むしろ自然を包む霊であったであろう。
こうしたゴッホ解釈は、画家論として妥当かどうかという問題としてよりも、大正期の文芸・思想の精神的気圏の傾向を伝える指標の一つとして興味深い。ゴッホもまた、鈴木貞美氏が言うところの「大正生命主義」の思潮の中で受容・評価されたと言うことができるだろう。