内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

いつでも好きなときに多読できることの不幸 ― 三木清「読書遍歴」より

2021-02-12 18:23:42 | 読游摘録

 多読か精読かという選択には一義的に決定できる答えはないと思う。それは各人の必要・嗜好・目的などによることであり、与えられた環境にもよる。場合によっては、意に反して多読せざるとえないこともあろうし、他律的に精読を迫られるということもあるだろう。
 昨日取り上げた三木清のエッセイ「読書遍歴」には、この点についても考えさせる一節がある。
 三木は、中学三年のときに赴任してきた国語の先生の影響で徳富蘆花を熱心に読むようになる。その先生は副読本として蘆花の『自然と人生』を生徒たちに与える。三木はそれを学校でも読み、家へ帰ってからも読む。先生は字句の解釈などは一切教えないで、ただ幾度も繰返して読むように命じた。その結果、三木は蘆花が好きになる。『自然と人生』のいくつかの文章を暗唱することができるようにまでなる。それから、自分でその他の蘆花の作品を求めて、熱心に読んだ。「冬の夜、炬燵の中で、暗いランプの光で、母にいぶかられながら夜を徹して、『思出の記』に読み耽ったことがあるが、これが小説を読んだ初めである。かようにして私は蘆花から最初の大きな影響を受けることになったのである」と記している。それに続く段落が私には特に示唆的に思えた。

 私が蘆花から影響されたのは、それがその時まで殆ど本らしいものを読んだことのなかった私の初めて接したものであること、そして当時一年ほどの間は殆どただ蘆花だけを繰返して読んでいたという事情に依るところが多い。このような読書の仕方は、嘗て四書五経の素読から学問に入るという一般的な習慣が廃れて以後、今日では稀なことになってしまった。今日の子供の多くは容易に種々の本を見ることができる幸福をもっているのであるが、そのために自然、手当たり次第にものを読んで捨ててゆくという習慣になり易い弊がある。これは不幸なことであると思う。もちろん教科書だけに止まるのは善くない。教科書というものは、どのような教科書でも、何等か功利的に出来ている。教科書だけを勉強してきた人間は、そのことだけからも、功利主義者になってしまう。

 三木は自ら進んで蘆花のみを耽読したわけではない。中学三年のときに高等師範出の国語の先生が赴任して来なければ、蘆花との出会いはなかったかもしれない。たとえあったとしても、このような集中的な読み方にはならなかっただろう。自分一人で思い決めて一人の作家だけを一年間繰返し読むということは中学生にはあまりありそうなことではない。やはりそこに幸運な出遭いがあったからこそ、この耽読経験は生まれた。思春期にそういう時期を持つことは、一人の人間の人格形成にとても幸いなことなのだとこの箇所を読みながら改めてつくづく思った。
 中学時代にはろくすっぽ本を読まなかった老生にはそもそもこのような経験はありえなかったが、高校二年時に太宰治を耽読したことは、その後の物の考え方を方向づける重要な要因の一つにはなっているのではないかと思う。他方、実に「功利的」な話なのであるが、この耽読経験の直後から、国語の成績が突然、本人が驚くほど良くなった(これについては昨年二月十六日の記事で話題にしている)。
 我田引水するつもりはないし、ましてや我が身を三木清に較べるなどという大それたことは欠片も思っていないが、思春期から青年期に、ただ一人の作家を一年間繰返し読むという経験ができたことはきっと幸福なことだったのだと思う。
 三木の時代でさえそれは稀になっていたとすれば、今日のように超便利な時代にはもう不可能になってしまったのだろうか。しかし、これは便不便の問題とは違うように思う。繰り返しになるが、やはり出遭いということなのではないだろうか。