内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

悲しみと失望と落胆を越えて前に進むために ― 学生が15年後の未来の自分に宛てて書いた手紙

2021-02-05 23:59:59 | 哲学

 その女子学生が私にはじめて面談に来たのは一昨年の十月のことだった。面談のアポイントを取るために送られてきたメールには、次年度の日本への留学の件だとあった。学部での日本留学希望者の担当教員である私のところにこの時期よくある相談で、それ自体はなんら驚くに当たらない。ところが、本人が持ってきたノートにびっしりと書き込まれた質問事項の多さには驚いた。それらを次々に読み上げ、私に回答を求める。それらの質問は、よく言えば、入念に準備されたものだが、悪くいえば、細部にこだわり過ぎだし、今からしても仕方のない心配から生まれた質問もあり、それには答えようもなかった。
 以来、ちょっとでも気になることがあると、メールで質問するか、オフィスアワーに面会に来た。他の留学希望学生は同じ質問だからと複数でやってくることが多いのだが、彼女はいつも一人だった。成績優秀な学生だが、いわゆる自己肯定感が不足していて、ちょっとしたことがすぐに心配になってしまうようだった。そのたびに、答えと同時に励ましの言葉を必要とした。
 昨年のちょうど今頃、彼女の第一志望である京大への留学が決まった。やれやれこれで少しは自分に自信をもって前に進んでくれるだろうと思ったのだが、今度は奨学金のことで度々問い合わせが来た。その中には、私ではなく事務や国際交流課に問い合わせるべきことも少なからずあったのだが、まずは私のところにメールを送ってくる。彼女からメールが来ると、正直、「またかよ」と舌打ちしたくなることもあった。しかし、これは本人の名誉のために言っておかなくてはならないが、文面はいつもとても丁寧で礼儀正しい。
 コロナ禍がなければ、昨年の九月から今年の八月末までが留学予定期間だった。昨年六月、秋学期のプログラムが中止になった。それで九月からの留学はなくなった。その時点では、春学期のプログラムは実施されるという前提で、春学期のみの留学を彼女は希望した。昨年十一月中、来春学期は大丈夫だろうかと聞いてきた。不安に思うのも無理はない。しかし、私には答えようがない。
 京大から正式に春学期の中止の通知が来たのは一月三十一日のことである。すでに予想されていたこととはいえ、本人のショックは大きかっただろう。そんな中、後期私が担当している授業で、学生たちに日本語で手紙を書かせた。状況設定は自由、フィクションでも構わない。彼女は、京大からの中止決定の通知が届いた日に「十五年後の私」宛の手紙を書いた。現実の自分の状況を見つめるために。

今日は、自分の計画が徐々に崩れていくことを知った。実は、まだ本当の意味での将来の展望を持てずに苦労している。そこで、今日この状況をクリアすることにした。
今でも世界一周をし、新しい文化、新しい顔、新しい笑顔の理由を発見することを夢見ている。君はきっと家族ができたり、勉強を終えたりしただろう。ようやくデザインの勉強をしたのかな。もしかしたら、私は世界的に有名なデザイナーと話しているかもしれない!
最初にこの手紙を書いたのは、15年後に、これらの夢を全部実現にしたかどうかを知りたいと思ったからだ。それでも、君はまだ何もしなくても、どうでもいいということを知ってほしい。君に罪悪感を抱かせるつもりはない。目標が変わることがあり、夢が壊れることもある。しかし、新しいものを作るためだけだと思う。
しかも、一番大切なのは、君に幸せになってほしいということだ。後は結局どうでもいいな。
15年前の****

 全文ではないが、この箇所を読んだだけでも、彼女が今の状況に耐え、前を向こうとしているのがわかる。「よく書けている。君は自分の文体をもっている」と思いっきり褒めておいた。