今日、日本近代文学研究において、あるいは二十世紀前半を対象とする日本近代思想史研究において、大正教養主義がどれほど日本で研究されているのかよく知らないのだが、フランスにおける日本研究では、ほとんどまともに取り扱われていない。というか、これまでずっとそうであった。事情は英語圏でも同様なようである。
欧米において大正教養主義が研究対象になりにくいのは、「自分たちのところにすでに或いはもともとあるもの」あるいは「自分たちを模倣したに過ぎないもの」についてわざわざ研究するに及ばないと欧米の研究者たちが考えがちだからである。もっと意地悪かつ端的な言い方をすれば、異国人の猿真似や「似て非なるもの」や折衷主義には軽侮の念しかいだくことができないからである。
文学に関して言えば、白樺派への言及が表面的かつ図式的な紹介にとどまっていること、宗教思想に関して言えば、禅が欧米人を熱狂させるのに対して、キリスト教に似ているとされる浄土真宗、とりわけ親鸞の思想がこれまであまり研究の対象になってこなかったこと(二十一世紀に入って変化が見え始めたが)、文化史においては、大正期の教養主義や人格主義がまともな研究対象となったことはない。
この点に関して、リュッケン先生は、一昨日の記事でも取り上げた中井正一研究において数頁を割いて批判的に検討している。批判の理由は、次の三つにまとめることができると思う。一つは、このような態度が欧米中心主義の反映であること。一つは、大正期の知識人たちにおける、さらには当時の日本社会一般における知的・精神的形成に大きな影響力をもった思想的要素を見損なうことになること。そして、もう一つは、一九三〇年代に出版され今日も「日本的なるもの」として欧米でも高い評価を得ている、九鬼周造、和辻哲郎、谷崎潤一郎らの作品と一九一〇年代に広く読まれた作品群との間の連続性と共通性を見落とすことになることである。その連続性・共通性とは、どちらの年代の作品もロマン主義的かつ神秘主義的な傾向をもっていることである。この三つ目の点が私には特に重要に思われる。