先週木曜日まで『私撰涼文集』と題して十回、思いつくままに「涼しい文章」を撰び、金曜日には跋として自分なりの「涼文」の定義を示した。それはそれで偽りはなく、剽窃ではなかった。
実は、「すずしい文章」という表現には出典がある。そのことに跋で言及しなかったのは、その時点では出典確認のために注文した本がまだ届いていなかったからである。
その本とは、石川淳の『文林通言』(中公公論社、1972年。講談社文芸文庫、2010年)である。昨日文芸文庫版が届いた。本書は、1969年12月から1971年11月までの二年間、朝日新聞に毎月一回、上下二日に分けて連載された文芸時評を一本にまとめたものであり、石川淳唯一の文芸時評である。
いつ読んだかよく覚えていないが、初版刊行の数年後ではないかと思う。内容もあらかた忘れてしまった。ただ、第一回目に取り上げられた森有正のエッセイ「雑木林の中の反省」(『展望』一月号)のなかの「オルガン練習のくだり」を評した「正確な表現をもって打ち出したすずしい文章である」という一文がなぜかとても印象に残り、それだけは四十数年以上たった今も忘れずに覚えていて、「涼文」という造語のきっかけとなったのである。
石川淳も森有正も若き日には熱心に読んだ。その影響を語るなどおこがましいが、石川淳の文体に憧れていた時期があった。今回『文林通言』を読み直して、そのころを懐かしく思い出しはしたものの、当時の熱が再び蘇ることはもうない。森有正も熱に浮かされように読んだ数年間があった。しかし、今はもう、彼が渡仏以後に書いた哲学的エッセイや日記はまったく読む気がしない。
その理由はと自問すれば、そこにはもはや私が探し求めているものはない、という一言に尽きる。