記録的な酷暑がふと思いつかせた今回の連載「私撰涼文集」は、「涼文」という造語をたよりとした連想の結果に過ぎず、撰ばれた文章に内容的あるいは文体的に何らの共通点があったわけではない。話題や内容が涼しげな文もあれば、文体が涼しげという理由で撰んだ場合もあった。前者の場合は読めばおのずと撰択理由が見て取れるだろうが、後者の場合、基準は主観的な印象によるところが大きく、読んでくださった方たちから必ずしも賛同あるいは共感を得られたわけではないと想像する。しかし、まったくいきあたりばったりの撰択であったからこそ、そこには自ずと私の好みが現れてもいたことであろう。
今回の連載を閉じるにあたって、「涼文」あるいは「涼しい文章」とは私にとってどのような文章なのか少し考えてみた。
まず、涼しい文章とは言えない文章、つまり「涼しくない」文章とはどんな文章だろうか。一読意味不明な文章がそれに該当することは論を俟たないであろう。内容が不快な文章もそうである。他方、仮に内容には見るべきものがあっても、構文が複雑で、一読では理解できず、何度も読み返すことを強いる文章もやはり「涼しい」とは言い難い。
書かれた順序に従って読んでいけば躓くことなく最後まで読むことができ、書き手の言いたいことがよくわかる、あるいは伝えたいイメージが明瞭に立ち上がってくる、しかもそれらに共感できる文章は私に「涼しさ」を感じさせる。読むことでそれまで私の中でもやもやしていた感情や印象がさっと一掃される涼風のごとき文章もある。あたかも初夏の清流の川下りのように論の運びに淀みがなく、「目的地」に着くまでの時間を忘れさせてくれる文章も「涼やか」だ。その間の「景色」が美しければなおのこと清涼感が増し、途中の「難所」を見事な舵さばきで通り抜けていくスリルが味わえれば、これはもう極上の涼文と言ってよいであろう。
しかし、涼文すなわち良文ではない。取り扱う事柄によって、あるいはその取り扱い方によって、そもそも涼文ではありえない場合もあり、それでも優れている文章がある。喉ごしの爽やかさはなくとも、噛みしめるほどに味の出てくる文章もある。真剣に注意深く額に汗して読むことを読み手に求める文章、それに値する文章もある。ごつごつとした険峻な道で、躓きながらでしか前に進めないが、その困難な道のりを歩き切ったときに開けてきた展望がその困難に見合う、あるいはそれ以上の爽快感を与えてくれる、そんな文章も価値ある文章だろう。
それを認めた上で、今月末までの東京滞在中、このブログの書き手としての私は、読んでくださる方々にできるかぎり涼文をお届けしたいと思っています。