今日は、新戸雅章氏の『江戸の科学者 西洋に挑んだ異才列伝』(平凡社新書、2018年)の第一章「究理の学へ」で「西洋近代科学と初めて対した孤高のニュートン学者」として取り上げられている志筑忠雄についての論述のなかから『暦象新書』に関わる部分の摘録を行う。
志筑忠雄は『暦象新書』のなかで、コペルニクスの地動説、ニュートンの作用・反作用の法則、万有引力の法則、慣性の法則、ケプラーの法則、楕円運動、真空、屈折の法則など、近代科学の主要な法則や概念について詳細に述べている。
訳文には、「忠雄曰く」として、随所に彼による補説が付されており、これを通して彼の思索の深まりをうかがうことができる。その所説には誤解・錯誤・強引なこじつけなどもあるが、重要なのは志筑がニュートン思想を体系的に受容しようとした点である。
蘭学を学んだ日本人は、ほぼ例外なく成果の吸収にのみ熱心で、学問の体系的理解まで考えが及ばなかった。しかし、志筑の思索的な性格はそれでは満足できなかった。彼はニュートン学の形而上学的基礎まで問わずにはいられなかった。
このように旺盛な探究心が独創的な宇宙創生論を生むことになる。それは『暦象新書』の付録である「混沌分判図説」のなかに展開されている。
志筑は、「天地の初め語るにあらず、後世必ずこれを詳にする者あらん、或いは西人既に其説あらんも知らず。唯未だ聞かざると」と述べて、独自の太陽系起源説を唱える。
志筑によれば、原初の宇宙にはただ原始の気が均一に広がっているばかりだったが、やがてそこに不均一が生じ、気の塊が生れた。その後、塊の中心部は自己の重力で収縮して恒星になり、外側は遠心力で離れて惑星になった。
志筑の死後、弟子たちによってその学問は補充され、全国に広まっていった。彼らのおかげで西洋の文化・情報の吸収は速まり、日本の近代化が促進される。しかし、志筑以後、西洋の科学思想に真正面から取り組んだ者は江戸時代には現れなかった。
明治以降も殖産興業や富国強兵を急ぐあまり、成果の吸収がもっぱらで、その土台にまで思いをはせる者は少なかった。まして自負心と気概をもって西洋思想と対峙した者となると、ほとんど見いだしがたい。
『暦象新書』の下巻が完成する前年の享和元年(1801)に『鎖国論』は訳出されていることからも、両者の関係を問うことは志筑が後者に取り組んだ意図を推察する上で避けて通れない。しかし、この点について新戸書は、『鎖国論』の内容には言及しているものの、一言も触れていない。