内的自己対話-川の畔のささめごと

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科学思想史家としての志筑忠雄(14)― 『鎖国論』の結論

2023-08-25 07:26:21 | 読游摘録

 徳川幕府が良策として鎖国を選択することができた諸条件を列挙した後、ケンペルは、鎖国に至る歴史的経緯を叙述する。
 幕府がキリスト教を全面的に禁止したのは、日本の伝統的な宗教意識と調和し得ないと判断したためだというのがケンペルの理解である。幕府のキリスト教への恐れも指摘する。
 幕府が鎖国に至ったのは、外国からの悪影響を遮断するためだったとケンペルは考える。
 総じて、鎖国に至った経緯について、必然的な方策であったとケンペルは理解を示している。
 鎖国が完成した日本についてのケンペルの見解は以下の通り。

日本が国を鎖すに至った今、将軍が考え計画したことに対して反対し妨害する者は誰もいなくなった。領主たちは皆帰順し、家来たちの謀反はなくなり、万民こぞってよく将軍に従ったため、勝手気儘な行動を心配する必要もなくなったのである。

 その結果として、

国中に反乱の恐れもなくなり、国境問題はなく、無敵の状態となって、他国の繁栄を見て羨み妬むというような賤しい気持ちを超越するようになった。実際、日本国には恐れるべき難事がなく幸福であり、外国からの来襲を心配する必要がなく、琉球・蝦夷・高麗及び周辺の対馬や佐渡や八丈島などの島々は、すべて日本帝国に服属した。

 鎖国下での日本国民は、閉じられた社会における幸福を満喫しており、自分が日本を訪れた頃は、まさにこのような政治・社会状況であったとケンペルは見ているのである。人民も平和で安寧で豊かな生活を満喫し、過去にも実現できなかった満足した自給自足の状態が日本には実現されている。ケンペルは、このような好ましい状況はもっぱら鎖国によってもたらされたと見ている。ここから次のような結論が引き出される。

統治者である尊敬すべき将軍によって、海外の全世界との交通を一切遮断し、完全な閉鎖状態にある現在ほど、国民の幸福がよりよく実現している時代を見出すことはできないのではないか。

 ここでは当時の江戸時代の現実がケンペルの見たとおりであったかどうかは問題ではない。言うまでもなく、ケンペルの知見は、限られた観察と見聞と資料に基づいており、見落とされている問題も多く、誤った認識もある。志筑ももちろんそのことに気づいている。仮にケンペルの記述が当時の日本の政治と経済と社会のある面をかなり正確に反映していたとしても、それが十八世紀末の日本の現実と大きく異なっていることも志筑には自明のことだったはずである。
 ここで私たちは再びこの連載の第一回目に提起された二つの問いに立ち戻らざるを得ない。
 ケンペルの『日本誌』の記述は志筑の時代から百年以上前の元禄期の日本についてであり、志筑は当時の政治・経済・社会・国際情勢と彼の時代のそれらとの間の大きな違いを当然認識していたはずである。だとすれば、十九世紀の初頭にどのような理由で『鎖国論』を訳したのか。これが第一の問いである。そして、志筑が心血を注いだオランダ語の科学文献の翻訳と『鎖国論』とはどのような関係にあるのか。これが第二の問いである。