内的自己対話-川の畔のささめごと

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科学思想史家としての志筑忠雄(11)― 十九世紀初頭に「鎖国」という語は生まれた

2023-08-22 06:41:04 | 読游摘録

 ようやく今回の連載の最終的なテーマである志筑忠雄の『鎖国論』にたどり着いた。池内了氏が『江戸の宇宙論』の中で『鎖国論』を正面から取り上げている補論―1「志筑忠雄の『鎖国論』をめぐって」を読んでいく。
 『鎖国論』は、長崎出島のオランダ商館付き医師のポストを1690年から1692年までの二年間努めたドイツ人医師、エンゲルベルト・ケンペル(1651‐1716)がドイツ帰国後に書いた浩瀚な『日本誌』に収録された補論の一つ「探究―現在の如く日本が国を閉ざして人民が外国と交易を営むことを許さぬことが、日本を幸福にする助けとなるや否や」の訳及び志筑による補注、後書きからなっている。
 この長たらしいタイトルを志筑が「鎖国論」と縮約し、訳本文でも「国を鎖す」の意で「鎖国」という語を用いたのがこの語のはじまりである。荒野泰典氏は『「鎖国」を見直す』(岩波現代文庫、2019年)のなかで「鎖国」という概念を「ケンペルと志筑の合作」としているが、日本語としての「鎖国」は志筑の造語である。
 ドイツ語で書かれた『日本誌』は、その出版の経緯がいささか複雑なのだが、その点には触れない。英訳が1727年、仏訳とオランダ語訳が1729年に出版された。1747~1749年にようやくドイツ語版が出版されるが、これは英語からの重訳であった。ことに英訳と仏訳はヨーロッパで広く読まれ、当時のヨーロッパ人たちが日本の鎖国政策について肯定的なイメージを形成するのに与って力があった。そのイメージは、しかし、ケンペル直筆原稿に基づいたドイツ語版が1777~1779年に出版されると転倒させられる。
 というのは、その校訂者であるクリスチャン・ヴィルヘルム・ドームが鎖国批判論を第二版に付したからである。十八世紀後半のヨーロッパの経済発展と国際情勢の変化とも密接に関係するこの日本に対するイメージの逆転という問題は、日本の近代化を世界史的視野のなかで見るために重要なポイントの一つではあるが、今回の連載の本筋から外れるのでこれ以上は言及しない。
 日本における『日本誌』への最初の言及は三浦梅園の『帰山録上巻』(1778年)に見られる。本多利明(1743‐1820)の『西域物語』(1798年)でも言及されている。志筑の翻訳の原本となったのは、平戸の藩主松浦静山(1760‐1841)が大金を積んで購入した版である。志筑はこの版を平戸に滞在して閲覧し、翻訳したらしい。