内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

汝はいずれのことばのなかで死にたきや

2024-05-30 22:59:30 | 雑感

 自分がどんな死に方をするのか、もちろん皆目わからない。あなたはどんな死に方をしたいですか。そう街頭で突然聞かれたとする。どう答えるか。この質問を予期してあらかじめ用意しておいた答えではなく、いきない短刀を突きつけられるようにその場でそう聞かれたらどう答えるか。
 多分、しどろもどろになりながら、あんまり苦しまずに死にたいですねとか、あたりさわりなく答えるだろうと想像する。
 他方、こうも思う。今際のきわ、フランス語での応答は勘弁願いたい。もうすぐ死ぬのだとわかっているときにまで、母語ではない言語でなにか言わなければならないのははなはだしい苦痛だろうと想像する。もちろんこれは人によるだろう。
 こうも自問する。母語である日本語の湯浴みのなかでならば穏やかに死ねるのか、と。わからない。孤独、無視、差別、排除、慚愧、悔恨など、ずっと苦しまされ苦しんできたことがかえってより深く身を苛み、間違った生き方をしたことに対する苦しみが増すだけなのかもしれない。
 まあ、結局、自死を選択しないかぎり、死に場所も死ぬ時も死に方もわからないし、最後の言語を云々する暇もないだろうが。ただ、exil あるいは exilé という言葉がこのごろひしひしと身に沁みる。
 こんなせんなき愚痴を綴ったのは、もっぱら私の心の弱さのなせるわざで、誰のせいでもない。だからたまたま私においてそのきっかけとなった、それ自体は名著である本の次の一文を著者名も著作名も伏せて引用する。なぜなら、それらを明示することは、その著者に対して失礼であるし、その著者がその一節で言及している作家に対しても不穏当なことにしかならないから。

ことばで生きるものにとって、それによって生かされていることばが、身のまわりに聞こえないところで死ぬのが、なによりも淋しいのではないかと、考えたことがある。