『「つながり」の精神病理』は、「中井久夫コレクション」(ちくま学芸文庫、全五冊)の一冊として、二〇一一年に刊行された。本書は一九九一年十月に岩崎学術出版社から刊行された『中井久夫著作集』の第六巻「個人とその家族」を中心として、新しく編み直したものである。
本書のなかに、「世に棲む老い人」と題された論考が収録されている。その初出は『岩波講座老いの発見4』(岩波書店、一九八七年)である。当時すでに日本社会の高齢化は今後急速に深刻化する問題として論じられ始めていたが、二〇一一年の文庫版への付記には「老齢社会はいよいよその姿を現わしつつある」と中井は記している。
それからまた十三年後の今日、事態はますます深刻化している。内閣府のホームページによると、一九九四年に六十五歳以上の人口が14%を超えた。二〇一九年には28,4%に達している。現在は30%を超えているだろう。
だから、一九八七年の時点での中井の考察には今日もはやそのままでは肯えない点もある。その点は差し引いた上でのことだが、この論考には今日の老齢社会の問題を考えるうえでの基礎的な視角が提示されている。そのあたりを摘録しておきたい。
まず、中井は「世に棲む老い人」を次のように定義する。「世に棲む老い人とは、社会の中にある程度にせよ安定した、生態学的な意味でのニッチ、すなわち、他からあまりおびやかされずに棲んでいられる、眼にみえない安定した領域を発見している人たちのことである。」(218頁)
このニッチを発見することができない人はどうなるか。「生涯、あるいは相当期間「ニッチ」を発見できない人は「群衆」であり、発見できないどころか、その社会にいられない人は「難民」である。」(219頁)
この規定に従い、かつひどく皮肉で意地悪な見方をすれば、今日の日本社会はその内部にすでに多数の「難民」を抱えているわけであり、だから外国からの難民の受け入れには消極的ならざるを得ないのだ、と言うこともできなくはない。
「多様な「老い方」を許容するような社会を成熟した社会といい、一様な老いしか許容しない社会は老人を「群衆」化し、老人には場がない社会は、老人の行き場のない悲劇的な「ボート・ピープル」のような存在にするということである。」(220頁)
この見立てに従うならば、現在の日本社会自体が船長不在で行く先を見失った遭難船のようなものであり、老人だけが「ボート・ピープル」なのではなく、ごく一部の恵まれた人たちを除いたすべての日本人が「ボート・ピープル」のような存在になっていると言えないであろうか。