先日、帚木蓬生の『ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力』(朝日新聞出版、2017年)をこのブログで何度か話題にした。最初に同書の中身を検索したとき、意外にも紫式部について割かれた章があることが同書に惹かれた理由の一つだった。式部の生涯の紹介や『源氏物語』の各巻についての概説的な部分には特段の解釈が披瀝されているわけではないのだが、それらについての一通りの紹介を終えたあとの「紫式部のネガティブ・ケイパビリティ」と題された節のなかの帚木の以下の所説は面白いと思った。
紫式部が物語の筆を執った動機は、男性の筆になる血の通わない歴史書に対抗して、生身の人間を描くという意思でした。自らが女性である作者は、この生身の人間こそは、男性の陰で光芒を放って姿を消していった女性たちに他ならないと、感じていたのでしょう。
だからこそ、ひとりひとりの女性を描き分けるとき、紫式部はこれまでの歴史に残らず消えていった女性への崇敬があったと私は思うのです。その結果、登場する女性たちには、作者のオマージュが隅々まで行き届いています。
物語の光源氏という主人公によって浮遊させながら、次々と個性豊かな女性たちを登場させ、その情念と運命を書き連ねて、人間を描く力業こそ、ネガティブ・ケイパビリティでした。もっと言えば、光源氏という存在そのものがネガティブ・ケイパビリティの具現者だったのです。この宙吊りの状態に耐える主人公の力がなかったら、物語は単純な女漁りの話になったはずです。
『源氏物語』についての帚木のこの所説の当否はともかく、紫式部自身がネガティブ・ケイパビリティを人生の諸経験を通じて体得した人であったことは、『紫式部集』の次の一首からも窺い知ることができる。
いづくとも 身をやるかたの 知られねば うしと見つつも ながらふるかな
この一首についての私見については2014年12月1日の記事を参照されたし。