今日日曜日、ほんとうに気持ちの良い青空に一日中恵まれました。こんな日はベランダの「お水洗い」(2022年5月8日の記事参照)に最適です。午前十時から一時間半ほどかけて、この皐月恒例行事を挙行いたしました。
一昨年までは、バケツ二つに水を貯めてはベランダに運ぶことを繰り返し、デッキブラシを使って洗い流していたのですが、これではあまり効率がよくないので、昨年から新方式を導入しました。その方式は、浴槽に水をあらかじめ貯めておき、そこから大小のバケツ四つを使ってベランダに運び、さらにキャンプなどで使う充電池稼働の携帯シャワーも動員して、隅々まで丁寧に洗い流すのです。こうすれば、ブラシでゴシゴシ擦らなくても、たいていの汚れはシャワーの水圧で洗い流すことができます。仕上げにはブラシも雑巾も使って、裸足で歩いても気持ちがいいほどきれいにします。
こうして洗い清めたベランダのまだ乾ききっていない床が折からの午前の陽光を受けて煌めくのを眺めるとき、小さな幸福を感じます。
午後は、清々しい気持ちで読書に耽りました。ヴァージニア・ウルフの『三ギニー』(片山亜紀訳、平凡社ライブラリー、2017年)第三章でこんな一節に出会いました。
楽しんで書くというチャンスに恵まれた書き手は、その喜びの大きさに間違いなく気づき、他の条件では書こうとしなくなるものです。また書き手が楽しんで書いたものを読むチャンスに恵まれた読み手も、そうした文章はお金のために書かれた文章よりもはるかに滋養が多いと間違いなく気づき、気の抜けた代用品をつかまされるのを拒むものです。[中略]そして、「文化」は―いまでは不誠実という拘束服を着せられ不定形の塊と化し、半分しか真実を語れず、書き手の名声を高めたり書き手のそのまた主人の財布を膨らませたりするために、言いたいことを砂糖で甘くし水で希釈しなくてはなりませんが―元来の形、つまりミルトンやキーツなどの優れた書き手の示している本来の姿、つまり逞しく、冒険心に溢れた自由な姿を取り戻すでしょう。
Who can doubt that once writers had the chance of writing what they enjoy writing they would find it so much more pleasurable that they would refuse to write on any other terms; or that readers once they had the chance of reading what writers enjoy writing, would find it so much more nourishing than what is written for money that they would refuse to be palmed off with the stale substitute any longer? […] And “culture”, that amorphous bundle, swaddled up as she now is in insincerity, emitting half truths from her timid lips, sweetening and diluting her message with whatever sugar or water serves to swell the writer’s fame or his master’s purse, would regain her shape and become, as Milton, Keats and other great writers assure us that she is in reality, muscular, adventurous, free.
ウルフがこのように言う意味での滋養に富んだ文章を日々読むことで心を養いたいものです。