内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

花散里、「源氏が忘れていた唯一の名」― ユルスナール「源氏の君の最後の恋」の残酷な結末

2024-05-29 15:33:38 | 読游摘録

 源氏が愛した女性たちのなかで、花散里ほど印象が希薄な女性はいない。『源氏物語』には彼女の容姿についての記述がほとんどない。「初音」の巻に、花散里が歳をとって薄くなってきた髪を見て、鬘をつけて飾ったらいいのにと源氏が批判的な眼差しを向けている(「御髪などもいたく盛り過ぎにけり。やさしき方にあらぬと、葡萄鬘してぞつくろい給ふべき」)のが目につくくらいである。
 ところが源氏は彼女を終生大切にした。豪壮な六条院に迎え、紫上と同じように邸内の一角を与えて面倒を見ている。須磨へ流謫している間も花散里の生活を支えている。帰京してからは、自邸の二条院の東の院を与え、夫人の一人として遇している。息子の夕霧の教育を母親代わりになってしてくれるように頼み、夕顔の忘れ形見の玉鬘をやはり親代わりになってほしいと託してもいる。二人は性愛を超えた穏やかな睦まじさを最後まで保っていたと想像される。
 このように地味な仕方ではあるが終生源氏に愛された控えめな花散里をマルグリット・ユルスナールは源氏の「最後の女」として「源氏の君の最後の恋」に登場させる。しかも、一度は村娘に変装して、そして今一度は大和の国の国司の妻と素性を偽って、源氏との思いを遂げる情人としてである。
 その花散里が源氏の最期を看取ることになる。今際の際に源氏は愛した女たちの名前を次々に挙げ、その最後に、数ヶ月前に訪れた村娘と、今こうして自分の脚をやさしくさすりながら最後を看取ろうとしている大和の女の想い出を口にする。
 その直後、源氏はがっくりと頭を固い枕の上におろす。それを見てぶるぶると体を震わせながら花散里は源氏に向かって、あなたのお邸にはもうひとり女がいなかったか、その名は花散里ではなかったかと問いかける。しかし、源氏はすでにこときれていた。

花散里はあらゆる慎みをかなぐりすてて、泣き叫びながら地にひれ伏した。しおからい涙が雷雨のようにはげしく頬を流れ、両手でかきむしった髪はひきちぎった絹綿のように逆だった。源氏が忘れていた唯一の名はまさしく彼女の名であった。

La Dame-du-village-des-fleurs-qui-tombent se jeta sur le sol en hurlant au mépris de toute retenue ; ses larmes salées dévastaient ses joues comme une pluie d'orage, et ses cheveux arrachés par poignées s'envolaient comme de la bourre de soie. Le seul nom que Genghi avait oublié, c'était précisément le sien.

 ユルスナールはなぜかくも狂おしく残酷な運命で花散里を絶望に追いやる結末にしたのであろうか。