日本の古典文学作品からある語の用例を挙げて、その語釈を根拠に議論を展開する。これは授業や論文で私もよく使う手段である。これによって議論に一定の説得性をもたせることができる。が、当該の古典作品の専門家による注解をちゃんと読み込んでから実行しないと、思わぬところで足を踏みはずしかねない。
古今東西の古典から自在に引用して絢爛豪華な議論を披露なさる著作家や教授先生方もいらっしゃるが(誰のことか、皆様適当にご想像ください)、そのきらびやかさに目が眩んで、その議論に含まれた牽強付会やアナクロニズムが見えなくなってしまうことがある。いや、書いている本人自身それに気づいていないこともある。
出だしがちょっと大げさになりすぎた。言いたいことは、もっと小さな、しかし、大事なことである。
九鬼周造の『偶然性の問題』(1935年)が第一級の哲学書であることを讃嘆の念とともに認めたうえでのことだが、同書での古語の語釈にはときにかなり初歩的な誤りが見られ、その引用が少しも立論の根拠になっていないことがあるのをかねてから残念に思っていた。
一例を挙げる。
第二章「仮説的偶然」一二「因果的消極的偶然」で九鬼は『方丈記』の次の一節を引用している。
今さびしきすまひ、一間のいほり、みづからこれを愛す。おのづから都に出でて、身の乞匃となれる事を恥づといへども、かへりてここにをる時は他の俗塵に馳する事をあはれむ。
この引用中の「おのづから」に注して、「自然」を意味し、「その結果としてかえって因果的偶然に対立する」と九鬼は言っているが、これは誤りである。この「おのづから」はまさに「たまたま、偶然」という意味で使われている。「みづから」と「おのづから」が近接して使われているから両者の語義を対比的に示すのに好都合な箇所だとでも思ったのだろう。しかし、この節での九鬼自身の立論のためにこの引用はまったく必要ない。たとえこうした初歩的な誤りは論脈のなかでは瑕瑾に過ぎないと片づけられるとしても、当の古典作品に対して礼を失した態度だと私は感じる。
「やめときゃよかったのに」の感なしとしない。
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