内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「みずから」と「おのずから」の接点を求めて ―『方丈記』の「一間の庵、みづからこれを愛す」を起点として(下)

2024-12-16 00:57:20 | 哲学

 古典的名著のなかの瑕瑾を血眼になって探し出して悦に入るような詮無き気晴らしがここでの目的ではない。
 偶然性の問題を考察するにあたって「おのづから」という副詞が一つの重要な概念になりうることは確かである。だが、13日の記事でも言及したように、この副詞は取り扱いに注意を要する。
 『古典基礎語辞典』(角川学芸出版、2011年)によると、「オノは、代名詞のオノ(己)。ツは、上代に用いられた、体言と体言とを関係づける連体格の格助詞。カラは「族・柄」で、生まれつきの意。よって、物事がもともとのそのままが原義。そこから、ひとりでに、たまたま、万一などの意が派生する。」
 昨日の記事に引用した『方丈記』の一節のなかで「おのづから」は「たまたま」という派生義で使われている。ところが、今月12日の記事で同じく『方丈記』から引用した「暁の雨は、おのづから、木の葉吹く嵐に似たり」のなかの「おのづから」は「たまたま」ではない。現代の注釈書では「自然と」と訳されていることが多い。
 しかし、この「自然と」とはどういうことか。「なんとなく」という訳を当てている注釈書もある。いずれにしてもこれらの訳語だけではこの文での「おのづから」のニュアンスがいまひとつよく捉えられない。
 ひとつ言えそうなことは、主体の意思・作為の不介入ということである。つまり、感じる主体である長明の心において、何ら長明「自ら」の考えも意図も介入することなく、「暁の雨」と「木の葉吹く嵐」との類似性がそれとして感受された、ということである。フランス語で長明のこの経験を言い表せば、 « cette ressemblance s’éprouve ainsi en moi. » とでもなろうか。一言で言えば、「ひとりでに事が成る」ということである。その成り様が「おのずから」である。
 もうひとつ言えそうなことは、この「おのずから」は「必ず」ではない、必然性ではない、ということである。上掲の例に即して言えば、両者の類似性は必然的ではなく、かといって恣意的でもない。ある事・経験が一旦起動されてしまえば必然に従う(あるいはそう見える・思われる)が、その事の起動自体は必然に属していない。このような偶発事を起点とした準必然的な経験の様態を事の起動後に言い表すときに「おのずから」という言葉が使われる。つまり、事が一旦成立した後に、その事はそうなる他はなかったのだと認証するとき「おのずから」と言われる。
 こう考えてよければ、「おのずから」と「みずから」の接点が「おのずと」見えてくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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1 コメント

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Unknown (あららぎ)
2024-12-16 10:03:58
「おのずと」まででてきてしまった。
でも私、おのずとは会話の中で使ってます😊
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