メーヌ・ド・ビラン(1766‐1824)はナポレオン一世(1769‐1821)と同時代人である。フランス革命時には、王党派軍人としてヴェルサイユ宮殿の防衛に当たり、九死に一生を得る。その後三年間パリで過ごし、先祖代々の領地があるベルジュラックに戻り、そこから彼の政治家としての生涯が始まる。
人前で話すのが苦手だった(声が弱々しく、議会での演説を代読してもらうほどであった)にもかかわらず、波乱に満ちた時代状況であったにもかかわらず、政治家として出世の階段を上り、国会議員、国務顧問官などの要職を歴任する。
ナポレオンがエルバ島を脱出し、パリへと向かっているとき、ビランはパリからそれを知らせる手紙を受け取る。その日1815年3月12日の日記にビランはこう記している。
Journée pluvieuse. J’étais tranquillement établi dans mon cabinet solitaire, relisant mes manuscrits métaphysiques, lorsque je fus interrompu à 3 heures par la réception du courrier de Paris. J’achève une note que j’avais commencée et j’ouvre ensuite une lettre qui m’apprend que Bonaparte est en France, que les Chambres sont convoquées et que je dois me rendre tout de suite à mon poste. À l’instant il se fait une révolution dans tout mon être. Je passe rapidement du calme le plus profond à l’agitation la plus vive ; ma tête s’égare, mon estomac se ferme ; je dîne à la hâte et j’ordonne mes préparatifs pour le lendemain.
一日雨模様。 独り書斎で静かに座り、形而上学草稿を読み直していた。午後三時、パリから受け取った手紙で中断させられる。 書きかけのメモを書き終え、手紙を開くと、ボナパルトがフランスにいること、議会が召集されたこと、そして自分の職場に直ちに向かわなければならないことを知る。 その瞬間、私の全存在が覆される。私は最も深い静寂からこの上ない動揺へと急転する。 頭がふらつき、胃が締めつけられる。急いで夕食をとり、翌日の出発の準備を命じた。
ビランの人生の振り幅の大きさを示す一事例だが、当時としても、いやたとえ今日であったとしても、哲学者としては例外的な生涯をビランが送ったことがそこからわかる。孤独な哲学者の形而上学的内省と波乱含みの政治的生涯との間の振り幅、そのなかで綴られた日記の中に表された精神の揺曳と錯綜する思索、同時代の称賛を受けた受賞論文、出版に至らずに残された膨大な草稿、最晩年の魂の苦悩と絶望、そして超自然的な恩寵の待機、これらをすべて視野に収める研究としてはいまだにアンリ・グイエの Les conversions de Maine de Biran (Vrin, 1948) を超えるものはない。
ただ、今年、ビラン没後二百年ということもあるのだろうが、Emmanuel Falque の Spiritualisme et phénoménologie. Le cas de Maine de Biran (PUF) という注目すべき一書が出版された。まだ拾い読みしただけだが、ミッシェル・アンリが造り上げたビラン像に対する徹底したアンチテーゼを全編にわたって展開している。明日からの万聖節の休暇中に少し腰を据えて読んでみようと思う。
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