内的自己対話-川の畔のささめごと

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人間による動物の搾取を正当化する形而上学的区別 ― フロランス・ビュルガ『動物、我が隣人』より

2024-07-28 16:57:56 | 哲学

 一昨日の記事で引用した Florence Burgat の Animal, mon prochain が出版されたのは1997年、以来今日に至るまで四半世紀以上、彼女は動物の権利を擁護する論陣を精力的に張ってきている。その間、フランスにかぎっても動物倫理・動物権利に関する書籍は数多出版されてきた。彼女の単著に限っても、大小あわせて十冊を数える。
 Animal, mon prochain はフランスにおける動物倫理・動物権利をめぐる諸議論の主要な起点の一つと見なすことができる。そこから彼女自身の考察と議論が今日までどのように展開されてきたかを辿ることは、それらとの関連において他の論者の立場と主張を明確に位置づけることを可能にもする。
 序論に本書の目的と主題・論点が明確に示されている。それらの要点をまとめていく。
 目的は、人間と動物との区別について行われている各種の言説の構造を検討することにある。
 それらの検討を以下の五つの論点において実行する ―(1)自然権 (2)人間を理性的動物とする中心的定義 (3)動物に関する科学的知見が引き起こした認識論的な問題 (4)人間の動物性の抑圧と関連する人類学的な諸相 (5)憐憫・同情(pitié)の経験が提起する倫理的な問題。この五つの論点それぞれに本書の五つの章が順に割かれている。これらの分野を異にした五つの論点それぞれの検討を通じて、それらをめぐる言説が相互に理論的に密接に関係していることを示す。
 人間と動物との形而上学的区別は、動物をモノの地位へと貶め、人間が動物を所有物として扱うことは自然権に属するという帰結をもたらし、実定法において動物は人間にとって所有可能な財産となった。私有財産である以上、動物の取り扱いは無制限に所有者の権利に属することとなる。私有財産であるところの動物に対して人間はいかなる義務も負わない。その結果として、人間は私有財産としての動物を自分たちの好きなように利用・使用・消費してきた。これが近代西欧社会の実情であった。
 このような人間による自己中心的な決定と人間と動物との存在論的な位格の差異との混同は、その結果として、モノである動物は倫理的な考慮の対象とはならず、道徳的義務は人間の共同体にしか関わらないという帰結をもたらした。
 動物が人間によって道具・手段として使われ、食料として消費されるのは、自然の秩序に基づいている、とする言説は、人間を世界の中心とする信仰を議論の余地のない絶対的な真理として提示することを目的とした詭弁に過ぎない。しかし、この種の言説が自明なこととして流通するかぎり、動物の搾取を根本的に見直す方途はない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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