学部最終学年後期必修の近世文学史を担当して今年で四年目になる。すでに今年の1月18日の記事で触れたことだが、来年度からの新カリキュラム導入とともにこの講義はなくなる。来週は、俳諧についての三回目の講義になる。俳諧についてはこれが最終回。本心を言えば、後期はすべて俳諧の話だけにしたいくらいこの主題については言いたいこと、いや言うべきことがある。しかし、それではあまりにも偏っているとの誹りを免れないだろう。
来週の授業では、芭蕉の紀行文と俳諧論の話をする。その準備として、廣末保『芭蕉 俳諧の精神と方法』(平凡社ライブラリー、1993年)を電子書籍版で購入して、久方ぶりに読み直した。その思想的探索の測深度の深さにあらためて感銘を受ける。
「あとがきにかえて」の次の一節には、そこからまた一つの新たな哲学的研究を始めることを可能にするだけの深い洞察が示されている。
長明もまた、すき心と仏道を調和させることで、乱れる心をしずめようとした。しかしそれは、完結した時空を仮構するためであった。西行のそれは、未完の時空に逍い出るためのものであった。「常」なるものは、どこにもなかった。そこから始まるほかなかった。
夢の世にまた旅寝して草枕夢の中にも夢を見るかな 慈円
この「かな」は詠嘆を認識に転じた「かな」であろうか。
芭蕉の紀行文は、「独自な詠嘆的文章」と評されることが教科書的にはまま見られる。しかし、詠嘆を認識へと転じる表現装置こそが芭蕉の文章に不朽の価値を与えていると言うべきなのだろう。
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