一方である特定の問題について系統的な文献調査を行いつつ、他方で自由な読書のなかで出会った言葉を拾い集めていくと、必ずとも言えないし、いつそうなるかもわからないが、両者が予期せぬ仕方で交叉して電光を発し、それがそれ以後の探究の導きの光になることがある。
あるいは、最初に読んだときには特に注意を引かなかった言葉が、それを含んだ同じテキストを新たな問題意識のなかで読み直すとき、今度は逆にテキストから浮き上がり目に飛び込んでくることがある。
今回ケアについて考えはじめてから、それ以前にあれこれ読んだ本のなかからケアと関係のある本を再び紐解いてみて、はっとさせられることが少なくない。そんな気づきを与えてくれた本から摘録しておきたい。
一冊目は西村ユミ氏の『語りかける身体 看護ケアの現象学』(講談社学術文庫、2018年)(2020年7月29日からの連載と2022年7月28日の記事を参照されたし)。四年前にこの本を最初に読んだときは、知覚経験の前意識的な層における対話の可能性という問題に特に関心をもって読み、それに付随して、なぜ言語的対話が不可能になった患者のことを「植物状態患者」というのかということが気になりだし、それがきっかけで植物とは何かという問題をいくらか系統的に考えはじめ、その結果として、「他性の沈黙の声を聴く 植物哲学序説」という論文を『現代思想』に寄稿する機会にも恵まれることになった。
今回は、本書の副題にもあるように、「看護ケア」が導きのキーワードである。今日のところは、一箇所だけ引用する。私にとってはそれだけで充分にインパクトのある一段落だからである。
植物状態患者の看護実践においては、医学的治療による回復が不可能とされていても、意識の回復と日常生活行動の自立、そして社会復帰をめざした関わりを続けている。例えば、問いかけに対する反応の見られなかった植物状態患者に、車椅子乗車訓練や昼夜睡眠覚醒訓練などを行った結果、発語や表情の変化が見られるようになった、という成果が報告されている。しかしながら、これらの関わりによって画期的な回復を見たり、社会復帰に至った者はごくごく少数であり、多くの患者たちは今なお、無言のまま静かに横たわっている。そして看護師たちは、このような患者に終わりのないケアを続けている。(22頁)
今回、引用の最後の一文にはっとさせられた。このケアは医学的な治癒や回復を目的としたものではない。意識の回復の見込みはまったくゼロというわけではなく、それをどこかで願いながらのケアではあるかもしれない。しかし、それを目的としたケアではない。なにか意識より深いところでの人と人との繋がりということに関わっていると思われる。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます