シモーヌ・ヴェイユからの引用を続けているのは、彼女の思想そのものに強い関心があるからであることは言うまでもないが、彼女の透徹した時代認識について繰り返し言及するのは、その的確さを賞賛したいからというよりも、その認識が現代社会の病巣についての優れた洞察にもなっているからである。そのことは昨日の記事の引用からだけでも明らかだと思う。
他方、その時代を超えた洞察力を讃嘆して事足れりとすることもできず、現実を前にして暗澹とした無力感へと自分が傾いてしまうのをどうすることもできずにいる。ただ、この長く暗いトンネルのなかをとぼとぼ歩いているような絶望的な気分の向こう側にまだ何かあるのかどうか確かめるためには、やはり歩き続けるしかないとも思う。
冨原眞弓の『シモーヌ・ヴェイユ』第8章「政治理論と神秘神学」の最後の数頁を読んでそのような思いを深めた。昨日の記事で引用した箇所の直後の段落から章末までの5頁ほどは、ヴェイユの文章からの若干の引用を交えつつ著者の冨原氏がヴェイユの考えを凝縮した形で提示している。そこから摘録する。関心を持たれた方はぜひ全文読んでみてください。
この怒涛のような非難や賞賛をまえに、どこまで個人の理性や判断力が抗えるものだろうか。質の異なる情念と理性が争えば、量的なエネルギーの圧倒的な差がものを言う。勝つのはエネルギー量にまさる情念である。ふつうの条件下ならば巨獣がかならず勝つ。(277)
「巨獣の道徳」の威力は計りしれない。[…]巨獣の道徳においては、「われわれは」といいたがる一人称複数形が圧倒的な優位にあり、「わたしは」と主張する少数意見には冷淡である。(278)
これ(=集団的情念)がのさばりだすや、あらゆる嘘や歪曲が可能となる。かくて、集団的情念を肥らせる政党の全廃という結論がみちびかれる。さて、政党には三つの特性があるとヴェイユは言う。第一に、政党は集団的情念をつくりだす機械である。第二に、政党はその成員の思想に集団的な圧力を加える組織である。第三に、政党は自己の勢力拡張を際限なくめざす自己増殖装置である。じっさいにはこの第三の特性が、政党の最終にして唯一の目的といってよい。よって理論的にみるならば、全体主義的ならざる政党はありえない。現実として、たいていの政党が全体主義的でないのは、同じ程度に全体主義的な他政党が存在して、互いに影響力を相殺しあうからだ。(280‐281)
この第三の特性は、集団的な情念が個人の思考を圧倒するや否や、かならずひとつの現象をひきおこす。すなわち目的と手段の逆転である。この転倒はごくありふれた現象なので、一般に目的とみなされているものの大半は、定義上からも、本質的にも、疑問の余地なく、手段にすぎないといってもよいほどだ。政党のほかにも、金銭、権力、国家、国民の威信、生産力、卒業資格など、枚挙にいとまがない。手段が目的とすりかわるメカニズムは単純だ。ほとんど野放しの宣伝力をかりて、自己の存続こそが公益にかかわると大衆を説得すればよい。(281)
かくてヴェイユは人間存在にきわめて両義的な視線をむける。一方で神的な虚無への同化を説き、一方で社会改革のための活動を惜しまない。ヴェイユの思考の道筋はこうだ。人間のなかで尊ぶべきは万人が共有する非人格的なものだ。非人格的なものは人格的なものを糧として生長する。人格的なものは糧としてのみ価値がある。ゆえに尊重されるべきだ。個人の観点からみれば、非人格的なものの成長は究極の消滅すなわち自己無化につながる。そして、この究極の消滅をうながすゆえに、社会改革は推進されねばならない。(282)
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