内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「何のわけも判らない言語の中に、音楽にみるような韻律があり」― 杉本鉞子『武士の娘』より

2024-12-08 21:10:55 | 読游摘録

 明日の「日本思想史」の授業では、年度開始前の夏休み中から前期で取り上げるテーマの一つとして予定していた「おのずから」と「みずから」の関係について話す。竹内整一氏の『「おのずから」と「みずから」 日本思想の基層』(ちくま学芸文庫、2023年)を授業中にも参照するつもりでいたのだが、いざ授業で学生たちに読ませる箇所を探してみると、序など一部を除いて、学部三年生にはちと文章が難しすぎるので、引用は最小限にせざるを得なかった。相良亨の『日本人の心』(東京大学出版会、1984年、増補新装版、2009年)や『日本の思想 理・自然・道・天・心・伝統』(ぺりかん社、1989年)なども参照したが、やはり読解テキストとしてはレベルが高すぎる。仕方なく、これらの本を参照しつつも、自前の説明を準備した。それはそれで楽しかった。
 その説明のなかで挙げる「おのずから」の用例をさまざまな本から採集していて、今井むつみの『学びとは何か ―〈探究人〉になるために』(岩波新書、2016年)のなかに引用されている杉本鉞子の『武士の娘』の一節に行き当たった。まだ六歳のころに意味もわからずに読まされていた四書について先生に尋ねると、「読書百遍意おのずから通ず」という反応が返ってきたという話で、「おのずから」の用例としては典型的である。その直後の文章が美しい。

何のわけも判らない言語の中に、音楽にみるような韻律があり、易易と頁を進めてゆき、ついには、四書の大切な句をあれこれと暗誦したものでした。でも、こんなにして過ごしたときは、決して無駄ではありませんでした。この年になるまでには、あの偉大な哲学者の思想は、あけぼのの空が白むにも似て、次第にその意味がのみこめるようになりました。時折り、よく憶えている句がふと心に浮び雲間をもれた日光の閃きにも似て、その意味がうなずけることもございました。(『武士の娘』大岩美代訳、ちくま文庫、1994年)

 この本の原本は杉本鉞子自身の手によって英語で書かれた。その原文は以下の通り。

There was a certain rhythmic cadence in the meaningless words that was like music, and I learned readily page after page, until I knew perfectly all the important passages of the four books and could recite them as a child rattles off the senseless jingle of a counting-out game. Yet those busy hours were not wasted. In the years since, the splendid thoughts of the grand old philosopher have gradually dawned upon me; and sometimes when a well-remembered passage has drifted into my mind, the meaning has come flashing like a sudden ray of sunshine.

Etsu Inagaki Sugimoto, A Daughter of the Samurai, Diamond Pocket Books 2023, p. 17-18.

 ちなみに、大岩訳は「自ら」(おのずから)とし、小坂恵理訳(『[新訳]武士の娘』PHP研究所、2016年)は「自ずと」としている箇所の原文を見ると、“A hundred times reading reveals the meaning.” となっており、「おのずから」に対応する語はない。上掲の成句を前提にして補ったのだと思われる。
 ここに記述された経験は、「言葉がみずからを解きほぐす」ということと「意がおのずから通じる」ということが不二であることを示している。これが「わかる」ということなのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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