内的自己対話-川の畔のささめごと

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「ありてなければ」― 『古今和歌集』における「存在と無」

2024-12-09 23:59:59 | 読游摘録

 竹内整一氏には『ありてなければ』(角川ソフィア文庫、2015年)というタイトルの著作があるが、この「ありてなければ」は、『古今和歌集』巻十八雑歌下のなかの詠み人知らずの次の一首から取られている。

世の中は夢かうつつかうつつとも夢とも知らずありてなければ(942)

 同書のなかで竹内氏はこの一首について次のように注解している。

 この世の中、あるいは男女の仲(当時、平安女流において「世の中」は「男女の仲」という意味合いでも使われていた)というものが、今たしかに「ある」ということを自分は知っている。しかしそれは、同時に、いつか「なくなる」こと、あるいは、もともとは「なかった」ものだということも知っている。そうした、有‐無の微妙な認識です。有は有であるままに、いわば、無に足をすくわれているわけです。(30頁)

 角川ソフィア文庫版『古今和歌集』の訳注者高田祐彦氏は同歌を「世の中は夢か現実か。現実とも夢ともわからない。存在していて存在していないのだから」と現代語訳し、「存在と無は一つであるという、すぐれて哲学的な歌であり、多くの「はかなさ」を詠む古今集歌にとって、一種の思想的な支柱ともいうべき歌。天台の教理に基づくという説もあるが、限定する必要はあるまい」と注解を加えている。
 この歌が「詠み人知らず」なのも何か示唆的である。
 この一首、ミッシェル・ヴィエイヤール=バロン先生の名仏訳ではこうなっている。

Ce bas monde
Est-il songe ou réalité ?
Réalité ou songe
Je ne le saurais dire, car
Il existe sans exister.

 「ありてなければ」が「在ることなし在る」あるいは「存在することなしに存在する」と訳されている。この仏訳もまた私を瞑想へと誘ってくれる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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