内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「加入儀礼の病い」を包含する上位概念としての「創造の病い」

2017-05-31 17:49:45 | 読游摘録

 訳語について一言。Creative illness という英語に対して「創造の病い」という訳語を中井久夫はあてている。実は、ちょっとそれに違和感を私は覚える。なぜなら、ただこの訳語だけをいきなり見ると、創造することの病い、つまり、創造に伴う病い、という意味にも取れなくもないからである。
 仏訳は maladie créatrice となっている。どうして「創造的病い」と訳さなかったのだろう。私にはそのほうが通りがいいと思えるのだが。例えば、ベルクソンの L’évolution créatrice は『創造的進化』と訳されていて、それに異を唱える人はいないようだし。もし『創造の進化』などとしたら、それこそ誤解の種にしかならないであろう。
 確かに、昨日の記事の引用を読んだだけでも、誤解の余地はない、と言えるかもしれない。それにこの訳を採用した理由が、日本語版『無意識の発見』のどこかにちゃんと説明されているのかもしれない。ただ、ちょっと気になったので、つまらないことけれど、ここに記しておく。
 さて、「創造の病い」という言葉が『無意識の発見』に最初に出てくるのは、力動精神医学の歴史を辿る前の予備的考察として、原始共同体における治療師の役割・地位・養成・継承等が記述されている箇所の中である。
 一般に、原始共同体で治療師がそれとして他の成員たちから承認されるためには、長く困難な修行期間を経なくてはならない。多くの場合、その期間中に「加入儀礼の病い maladie initiatique」を経験しなくてはならない。その経験の仕方は様々で、薬物・アルコールを使う場合、催眠術を使う場合、あるいは「真正の」精神疾患を経る場合などがある。
 この第三の場合について、エランベルジェは、その病いが一般の精神疾患と異なっているのは、次のような点にあると説明する。
 修行中に発症したこの病いはシャーマニックな召命から発生したのであり、この疾病期間、修行中の病者は他のシャーマンたちの職業的指導・監視下に置かれている。病いが「癒えた」とき、修行は終わり、病者はシャーマンになったと宣言される。
 この「加入儀礼の病い」を「創造の病い」というより広いカテゴリーに含めることができるだろうとエランベルジェは言う。そして、ある種の神秘家、詩人、哲学者たちの経験もこのカテゴリーに入るだろうという。
 病いの経験とそれからの治癒が元の状態への回復ではなく、新しいより豊かな世界経験への通過儀礼になっているとき、その病いは「創造の病い」である、ということであろう。












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2 コメント

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「創造の病」 (Danza Espanola)
2017-06-01 13:01:02
お久しぶりです。年末年始とご体調が優れなかったようですが、今は大丈夫ですか? ワインも控えめにというのは余計なお世話かもしれませんが、長くご健康であられますように。

6月に入りまして東京はじっとりです。こちらのブログさんは毎日書き続けられていらして丸4年の記念日がもうすぐですね^^継続の力は凄いなあと思います。

エランベルジェ著『無意識の発見』の「創造の病い」は同書における一つの大きなテーマだと思います。特に第7章のフロイト、第11章の結びには「創造の病い」について入念に記されているのはご存知かと思います。

お手元の書に記されているかどうかわかりませんが、「日本語版への序」としてエランベルジェは次のように述べています。

「もっともシャーマンは、自分の特殊技能を実践するためにはあらかじめ、長期間の“入門の病い”(initiatory illness-通過儀礼的な意味を持つ病気)を経ていなければならない。この病いを通してはじめて治療力が身に備わる。本書の中で証拠を示すが、この“入門の病い”は実は無意識を発見した何人かの先駆者が味わった“創造神経症”(creative neurosis)と密接な近縁関係にある。」(アンリエレンベルガー著 弘文堂『無意識の発見・上』冒頭文につきページナンバー無し)

上記、ご参考になれば幸いです。


>病いの経験とそれからの治癒が元の状態への回復ではなく、新しいより豊かな世界経験への通過儀礼になっているとき、その病いは「創造の病い」である、ということであろう。
 
仰るとおりと思います。

日本語版での「創造の病い」について個人的なものですが、私は次のような文脈で捉えています。フロイト、ユングらには創造の(ために必要だった)病いが、外形的に共通要件として認められる。彼らにとって病いは目的的なことではなく(通過儀礼とは全く意識せず)、結果的に病いから回復して創造を手に入れた、という手前勝手なイメージですが。

確かに「創造の病い」を単品で見ると誤解が生じそうなのは仰るとおりです。上記の文脈で捉えますと、形容表現が混じる「創造的病い」よりも少しふわっとした「創造の病い」のほうがと感じます。あくまで個人的にです。

フロイトにかんする章では「創造的」と訳した文章があります。

「創造的な病いの場合には、その病いの結果としての人格の変貌は更に深い。」(上記同書下巻 第七章 p38)

この前の文章で「創造的な作家」という文言を使用しているので、「創造的な病い」としたのは明白ですが。


『無意識の発見』日本語版ではどうなっているかについて、お力になれるのであれば嬉しい限りですので遠慮なくお申し付けください。無意識の探究にかんしては私の最も興味のそそる処でもありまして、自分のためにもなりますので。
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Re:「創造の病」 (kmomoji1010)
2017-06-01 18:17:35
お久しぶりです。貴重なご教示とご親切なお申し出、ありがとうございます。仏訳を読んでいて疑問に思うところが出てきたら、そのときはご教示をお願いするかも知れません。そのときはよろしくお願いします。
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