内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「大衆が必要としているのは、その人の日常生活の実体それ自体が詩であるということだ」― シモーヌ・ヴェイユ「奴隷的でない労働の第一条件」より

2024-08-12 11:15:53 | 読游摘録

 いろいろあってどうにも意気阻喪してしまい、そのままの状態ではとてもブログの記事を書く気になれないことがときどきあります。手書きならば、筆が進まないというところ、パソコンで打ち込む場合、指が動かないとでも言えばよいでしょうか。今年に入ってからは、ときどき以上にその頻度が高くなっています。
 それでも毎日投稿だけはなんとか続けようと思うときは、姑息な手段かも知れませんが、引用に頼ります。ただ、引用される文章自体にはなんの科もないどころが、引用のために文章を打ち込むことで、こちらの気持ちが立て直されることもあります。それはその文章が持っている力によるのでしょう。
 今日もだめで、いつものように早朝に起きられず、ジョギングを諦めました。何をする気にもなれず、畳の上に仰向けになり、天井をぼんやりと見上げながら、とりとめのない切れ切れの思いが浮かんでは消えていきました。
 そんな状態ですから、人の言葉に助けを求めました。シモーヌ・ヴェイユの「奴隷的でない労働の第一条件」の一節です。原文と今村純子訳を引用します。

 Il y a un seul cas où la nature humaine supporte que le désir de l’âme se porte non pas vers ce qui pourrait être ou ce qui sera, mais vers ce qui existe. Ce cas, c’est la beauté. Tout ce qui est beau est objet de désir, mais on ne désire pas que cela soit autre, on ne désire rien y changer, on désire cela même qui est. On regarde avec désir le ciel étoilé d’une nuit claire, et ce qu’on désire, c’est uniquement le spectacle qu’on possède. 
 Puisque le peuple est contraint de porter tout son désir sur ce qu’il possède déjà, la beauté est faite pour lui et il est fait pour la beauté. La poésie est un luxe pour les autres conditions sociales. Le peuple a besoin de poésie comme de pain. Non pas la poésie enfermée dans les mots ; celle-là, par elle-même, ne peut lui être d’aucun usage. Il a besoin que la substance quotidienne de sa vie soit elle-même poésie.

 魂の欲望が、ありうるであろうものやあるであろうものでなく、現にいまあるものに向かうことを、人間の自然性が受け入れる場合がただひとつだけある。その場合とは美である。美しいものはすべて、欲望の対象である。だが美しいものが別のものであることを望まない。美しいものがそこで何も変わらないことを望む。美しいものがそこにあるというそのことを望むのである。明るい夜の星空を、欲望をもって眺める。そして、欲望するものは、ただ現にいま所有しているその光景だけである。
 大衆は、自らの欲望のすべてをすでに自分が所有しているだけのものに向けることを余儀なくされているのだから、美は大衆のためにあり、大衆は美のためにある。他の社会的条件にある人にとって詩は贅沢である。大衆は、パンのように詩を必要としている。言葉のなかに閉じ込められた詩ではない。大衆が必要としているのは、その人の日常生活の実体それ自体が詩であるということだ。(『シモーヌ・ヴェイユ アンソロジー』河出文庫より)

 皆様、どうか佳き一日をお過ごしください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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