内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「魂は、たとえその無限小の部分をもってしても、空しく愛し続けなければならない」― シモーヌ・ヴェイユ「神への愛と不幸」より

2024-08-13 13:33:51 | 読游摘録

 シモーヌ・ヴェイユの「神への愛と不幸」は死の前年1942年の3月から4月にかけてマルセイユ滞在中に執筆された。「本稿は[…]素朴でありながら鬼気迫る筆致になっており、シモーヌ・ヴェイユという人の文体は、本稿に極まっている」(今村純子訳『シモーヌ・ヴェイユ アンソロジー』河出文庫、「解題」)。確かに、その文章は極限にまで研ぎ澄まされていて、読んでいて息が苦しくなるときもある。その断定的な調子は、本人の経験と思索から直に打ち出されていて、こちらからの反問を一切許さない厳しさと強さがある。

 Le malheur rend Dieu absent pendant un temps, plus absent qu’un mort, plus absent que la lumière dans un cachot complètement ténébreux. Une sorte d’horreur submerge toute l’âme. Pendant cette absence il n’y a rien à aimer. Ce qui est terrible, c’est que si, dans ces ténèbres où il n’y a rien à aimer, l’âme cesse d’aimer, l’absence de Dieu devient définitive. Il faut que l’âme continue à aimer à vide, ou du moins à vouloir aimer, fût-ce avec une partie infinitésimale d’elle-même. Alors un jour Dieu vient se montrer lui-même à elle et lui révéler la beauté du monde, comme ce fut le cas pour Job. Mais si l’âme cesse d’aimer, elle tombe dès ici-bas dans quelque chose de presque équivalent à l’enfer.

 不幸は一時のあいだ神を不在にする。死よりも、真っ暗闇の独房のなかの光よりも不在にする。ある種の恐怖が魂全体を覆い尽くす。この神の不在のあいだ愛すべきものは何もない。恐ろしいのは、愛すべきものが何もないこの暗闇において魂が愛するのをやめるのならば、神の不在が決定的になるということである。魂は、たとえその無限小の部分をもってしても、空しく愛し続けなければならない、あるいは少なくとも愛そうと欲しなければならない。そうするならば、ヨブの場合がそうであったように、いつの日か魂に神がやって来て、魂に世界の美を啓示するであろう。だがもし魂が愛するのをやめるならば、魂はこの世においてすでに、ほぼ地獄に等しい状態に堕ちてしまう。(今村純子訳)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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