内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「恋愛」の語釈問題に敏感に反応する学生たち

2024-11-20 05:48:11 | 講義の余白から

 一昨日の学部三年生の「日本思想史」の授業で、「聴解練習補遺」と称して、『舟を編む ~私、辞書つくります』の第二話のなかの、先日修士の授業で話題にしたのと同じ箇所(11月6日の記事参照)を視聴させました。視聴前にその回までのドラマの粗筋をざっと説明しました。
 こちらの予想および期待に反して、視聴中に彼女彼らたちが特に反応したのは、11月6日の記事で引用した馬締光也の言葉に対してではなく、その前の場面で、岸辺みどりが「恋愛」の語釈について、どの辞書をみても「男女」とか「異性」という言葉が必ず入っていることに違和感を覚えることを馬締光也に向かって訴えているシーンでした。
 粗筋のざっくりとした説明の後、語彙説明も字幕もなしでいきなり視聴させたのですが、しかも一回視聴しただけにもかかわらず、彼女彼らのうちの多くが既存の辞書の「恋愛」の語釈の何が問題なのか理解していました。もちろん映像の力があったことは間違いありません。でも、それだけではなく、自分たちも日頃関心をもっている問題だったことが理解を容易にしたということもきっとあったと思います。
 こうした些細な成功体験(予習なしに、いきなり「そのままわかっちゃう!」という快感)は確実に学習意欲を高めてくれます。
 というわけで、「聴解練習補遺」を授業のレギュラー項目に昇格させることにしました。などと、もっともらしく昇格を正当化していますけれど、正直に言えば、どの作品のどの場面を選ぶか、その選定作業が楽しい、というのが本当の昇格理由です。つまり、動機は「不純」です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「キラキラバッハ」― アレクサンドル・タロー演奏『バッハ・トランスクリプション集』

2024-11-19 07:29:21 | 私の好きな曲

 今日から12月7日まで、「サイテー・モード」です。
 これは、「オンリー・サイテーション・モード」をさらに下回る究極の手抜きモードで、毎日せいぜい数行です。たとえそれより長くなったとしても、「流している」ことに変わりありません。
 もう随分昔の話で記憶があやふやなのですが、吉田秀和がどこかでウラディミール・アシュケナージのバッハ演奏(パルティータだったかな?)を「錦絵のよう」って評していたことがあって、演奏技術としては非の打ち所はないのだけれど、こんな豪華絢爛な音の絵巻物って、バッバ解釈としてどうなのかっていう違和感の表明だったような印象が残っています。
 そんなことを思い出したのは、今年発売されたアレクサンドル・タロー演奏『バッハ・トランスクリプション集』を聴いて、「宮廷音楽みたいに典雅できらびやかだなあ」って思ってしまったからです。
 でも、嫌いじゃありません。こういうキラキラしたバッハ演奏もいいなって思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


fragile と vulnérableの用例採集( 3)― vulnérabilité は「他者を思いやり、他者のために苦しむことを可能にする力」

2024-11-18 00:27:51 | 哲学

 コリーヌ・ペリュションがここ15年ほどにわたって展開・深化させてきた「傷つきやすさの倫理」(éthique de la vulnérabilité、以下「V の倫理」と略す)をその明示的な出発点から辿り直すためには、2009年に PUF から刊行された L’autonomie brisée. Bioéthique et philosophie と 2011年に Cerf から刊行された Éléments pour une éthique de la vulnérabilité. Les hommes, les animaux, la nature とをまず読まなくてはならない。その後に現在に至るまで彼女が矢継ぎ早に刊行している諸著作のなかでも、V の倫理に言及されているところでは両書への参照が求められている。
 しかし、かなり大部な両書(前者が474頁、後者が349頁。しかも行間が狭い)をじっくりと読む時間はノエルの休暇までないので、今日の記事では、より最近の著作のなかの二冊 Éthique de la considération, Éditions du Seuil, 2018, 2ᵉ édition avec une postface inédite, Éditions du Seuil, « Points Essais », 2021 と Réparons le monde. Humains, animaux, nature, Rivages poche, « Petite Bibliothèque », 2020 とから V の倫理の要点の一つがわかる箇所をそれぞれ一つずつ引用するに留める。それらからだけでも、なぜ彼女が V を倫理の中心に置こうとしているのかがわかる。

L’éthique de la considération est inséparable de la reconnaissance de notre vulnérabilité, qui est la marque de notre fragilité, mais aussi ce qui nous rend aptes à nous sentir concernés par les autres, voire à souffrir pour eux.

Éthique de la considération, « Points Essais », op. cit., p. 28.

La vulnérabilité renvoie moins à la fragilité qu’à notre condition charnelle, engendrée, mortelle et terrestre. C’est cette vulnérabilité, dont la mort comme séparation et radical abandon est la manifestation suprême, que je vois en autrui. Cette vulnérabilité fait que je suis responsable de lui. Ainsi, la vulnérabilité désigne la fragilité, mais elle est aussi une force parce que je suis capable de me tourner vers autrui, de me décentrer, parce que nul n’est réductible à ce que l’on sait ou voit de lui, et que le visage est en excès sur sa manifestation.

Réparons le monde, op. cit., p. 106.

 V とは壊れやすさのことだが、力でもある。なぜなら、私は他者と向き合い、自分のことを脇に置くことができるからであり、誰も私たちが知っていることや見ていることに還元されることはないからであり、顔はその表出を超えるものだからである。
 二つ目の引用の後半に示されたこの考え方からだけでもコリーヌ・ペリュションがレヴィナスを参照していることは明らかなのだが、実際引用箇所の前後でレヴィナスには明示的に頻繁に言及されている。他の著作でもレヴィナスへの言及は頻繁に見られるし、Pour comprendre Levinas, Éditions du Seuil, 2020 というレヴィナスについてのモノグラフィーも刊行しているくらいだから、これは少しも驚くにあたらない。
 今回の F と V をめぐる考察ではレヴィナスまでは遡らない。ペリュションの2009年の著作以降現在までの F と V をめぐる諸議論を一望できる視角を開くことができればそれでよしとする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


バッハ「6つのオルガン・トリオ・ソナタ」― 早朝に降り注ぐ澄明な音楽の恵み

2024-11-17 01:07:36 | 私の好きな曲

 一年を通じて音楽を聴かない日はほとんどないのですが、聴いた曲についてブログの記事を一本仕立てるには、ただ「よかった」ではさすがに体をなさないからと、曲の構成や成立史についてちょっと調べてみようかなぁ、でもそんな時間ないし、かといって付け焼き刃の知ったかぶりは恥ずかしいだけだしなぁと逡巡を重ね、そのうちに書く気が失せてしまうということがしばしばあります。それだけですでに時間の無駄ですよね。
 それに、WEB上には音楽情報が溢れ、それこそ無数と言ってよい音楽関係のブログがあり、それらのなかには本当に懇切丁寧に楽曲解説や名盤紹介をしていくださっているものも多数あり、かつてはそれらのブログに日参して多くのことを学ばせていただきました。それらを読んで思うことは、楽器一つできず譜面も読めない私ごときがある曲について何か付け加えることなどまったくない、ということです。
 とどのつまり、「ホントいいですよねぇ、この曲」くらいしか言えないわけです。それでも一言呟いてみたくなることもあります。それはどんなときかと言えば、その曲、その作曲家、そして演奏者に宛てて、「ほんとうにありがとうございます。この曲を聴けただけで、今日は佳日です」と感謝の言葉を記しておきたいときです。
 昨日土曜日の朝がそうでした。早朝のひと仕事を終えて、さて何か聴こうかなと思ったとき、いつもだとついアップル・ミュージックのストリーミングに頼ってしまうのですが、昨日は何故か手持ちのCDのなかから選んで聴く気になり、かつてのヘビーローテション・コレクション(バッハ率9割超)のなかで今もCDプレーヤーのすぐ脇に並べてある数十枚のなかから最左翼(一番プレーヤー寄り、ということです)に位置する一枚を選びました。
 その一枚とは、カイ・ヨハンセン(Kay Johannsen)の演奏によるバッハの「6つのオルガン・トリオ・ソナタ」(hänssler classic, 1997)です。この曲集は、その他のオルガン演奏も何枚か所有しているのですが、事実上このアルバムが私的一択です。
 早朝あたりが静まり返っているなかで聴くとき、音響が素晴らしい教会の身廊中央あたりに独り座り、バラ窓下のオルガンから天井まで立ち上り、そこから降り注がれる澄明な響きのなかに身を浸しているかのようで、ほんとうに心が洗われます。
 曲の詳細およびこのアルバムを含めた推薦盤については、こちらのブログを参照させていただきました。曲についての造詣と曲への愛情に溢れ、ユーモアも込められた素敵な記事です。ありがとうございました。
 皆様、どうぞ好き日曜日を穏やかに和やかにお過ごしください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


fragile と vulnérableの用例採集(2)― 心の徳性としての「壊れやすさ」と外から到来するものへの心の開けとしての「傷つきやすさ」

2024-11-16 07:42:38 | 言葉の散歩道

 フランス語で文章を書くとき、同一段落内あるいは近接した箇所で同じ名詞・動詞・形容詞・副詞をできるだけ繰り返さなにようにするという文章作法の原則がある。この原則は小学生の頃から叩き込まれるから、学生たちもこれを守ろうとする。この原則に忠実であろうとすると、それ相当の語彙力が求められる。それゆえ類義語辞典も多数あり、それらは読んでいるだけでも楽しい。
 日本学科の学生たちの中にはこの原則を日本語の文章にまで持ち込もうとする者がいる。しかし、この原則にあまりこだわると、日本語の場合、かえって議論が曖昧になったり、ときには衒学的に見えたりする。だから、学生たちには、是が非でも同義語あるいは類義語による言い換えを試みるよりも、同じ単語を繰り返すことで保証される論理的明晰性を優先するように指導する。
 他方、厳密に言えば、フランス語でもまったくの同義語として扱える二語は存在しない。だから、二つの単語が同義に使われているかどうかは文脈に応じて判断する必要がある。言い換えれば、文脈が異なれば、あるいは書き手が異なれば、別の場所では同義語扱いだった二つの単語が厳密に区別されて使われることもある。それゆえ、文脈によって、両者の違いを探っても無益な場合もあり、両者の区別を曖昧なままにしては書き手の言いたいことがわからなくなる場合もある。
 ここのところ拙ブログで話題にしている fragile(以下 f と略し、fragilité は F とする) と vulnérable (以下 v と略し、vulnérabilité は V とする)は、そのような判断が求められる典型例の一つである。例えば、次の文章を見てみよう。

 Dans quelle mesure Nussbaum est-elle parvenue à tenir ensemble autonomie et vulnérabilité ? 
 Il faut d’abord distinguer la bonne vulnérabilité de la mauvaise. La mauvaise, c’est la fragilité de l’eudaimonia humaine, le fait qu’elle soit soumise aux aléas de la fortune – qu’il s’agisse de notre moralité ou plus généralement de l’épanouissement de nos bonnes « capacités ». Cette vulnérabilité doit être réduite autant que possible, par l’action politique notamment. La bonne vulnérabilité, c’est la sensibilité-réactivité (responsiveness) qui nous permet d’agir de manière souple et ouverte.

 この文章は、Pierre Goldstein, Vulnérabilité et autonomie dans la pensée de Martha C. Nussbaum, PUF, 2011 の結論部の冒頭である。見ての通り、V を自律(autonomie)との関係で積極的に位置づけるために、良い V と悪い V とを区別している。悪い V は人間の幸福の F と同定されている。人間の幸福(eudaimonia)は偶然に左右される点において壊れやすいということである。この悪い V は特に政治的活動によって最小化されなくてはならないとされる。他方、良い V とは、私たちが外から到来するものに対して開かれており、それに対して柔軟に対応できる受容力を意味する。
 この区別はこの語の一般的な用法としては認め難いが、V が孕んでいる両義性を顕在化させている点において興味深い。他方、同書のなかには F を心の vertu (徳性)と見なしている箇所もあり、F に対しても両義的な考察が行われている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


fragile と vulnérableの用例採集(1)

2024-11-15 10:26:07 | 言葉の散歩道

 人間の壊れやすさ(fragilité)と傷つきやすさ(vulnérabilité)という当面の主題から少し離れて、fragile と vulnérable という二つの形容詞の用例を、この主題とどこかで繋がっている幾冊かの電子書籍のなかから採集しておきたい。
 ただし、その著者に固有の特異な用法と思われる例は避ける。他の著作家にも同様な使い方が見られそうな用例に限る。引用の順番に特に理由はない。手当たり次第である。だから、典型的・一般的あるいは代表的な用例とは限らない。出版年にも特にこだわらない。
 あらかじめ何らかの見込みがあってする調査ではなく、むしろ「見込み捜査」は避けたい。適当に列挙していく中から自ずと用例の傾向性が浮かび上がってくるのを気長に待ちたい。
 まず、Corine Pelluchon の Manifeste animaliste. Politiser la cause animale, Rivages poche, 2021 から始める。本書中、用例は二箇所のみ。

Aujourd’hui, nous savons que la Terre est fragile et que nous ne devrions pas, en raison de notre nombre, adopter des modes de vie et de consommation aussi gourmands en énergie.

Cette violence, la plupart du temps, est légale, comme dans les abattoirs et les laboratoires. Elle s’exerce surtout sur les animaux et sur les êtres les plus vulnérables, sur ceux qui sont les plus fragiles et ne peuvent se défendre seuls.

 第一例は、地球環境の危機的状況が叫ばれるようになってからの用法である。第二例は、fragile と vulnérable がほぼ同義として使われている例である。
 次は、同著者の最新刊 L’être et la mer. Pour un existentialisme écologique, PUF 2024 から。

Cette opération dessine les contours de la subjectivité et individualise le sujet tout en l’élargissant, mais ce rapport à soi par le rapport à l’incommensurable (au monde commun) passe aussi par la confrontation à ce qui est fragile et périssable en soi.

 この用例では fragile と périssable とが併置されているが、単なる同義語としてではない。この点について、ジャン=ルイ・クレティアンが Fragilité のなかで引用しているコンディアックの『同義語辞典』の記述が興味深い。

« Les choses sont périssables, parce qu’elles doivent finir ; elles sont fragiles parce qu’elles peuvent finir à tout instant, et tomber sous les premiers coups qui les frappent. »

 一般の仏語辞典ではここまではっきりと両語を区別してはないから、コンディアックによる区別を一般化することはできない。クレティアンがコンディアックのこの区別を特に引用したのも、fragilité は恒常的な壊れやすさを意味するということを強調するのに好都合だったからである。
 前者 périssable は動詞 périr からの派生語であり、この動詞は「死ぬ」、特に「精神的に死ぬ」という宗教的意味で12世紀から使われている。だから、形容詞 périssable は「(地上の生命は)いずれ滅びる運命にある」という意味を有する。それに対して、fragile には本来そのような宗教的意味はなく、単にものが壊れやすいことを意味した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


人間の壊れやすさ(fragilité)と傷つきやすさ(vulnérabilité)― その現象学的人間学的考察(4)人間はワイングラスよりも壊れやすい。ゆえに、今を措いて時はなし

2024-11-14 08:02:10 | 哲学

 ジャン=ルイ・クレティアンを読んでいて楽しいのは、西洋思想史全体を覆うその無双の博覧強記が可能している縦横無尽な引用である。クレティアン自身の主張には納得できない箇所でさえ、そのなかの引用にはクレティアンの意図を超えた内容が含まれていて、それをこちらで勝手に引き出すために夢想に耽るのも楽しい。
 アウグスティヌスはクレティアンにとってもっとも重要な神学者・哲学者・思想家・著作家であり、アウグスティヌスを中心とした著作も多い。Fragilité でももっとも多く引用されている著作家である。その引用箇所の一つが説教XVIIからのそれである。

« Est-ce que nous ne portons pas nos périls avec nous dans cette chair qui est la nôtre ? Est-ce que nous ne sommes pas plus fragiles (fragiliores) que si nous étions de verre ? Le verre, en effet, même s’il est fragile, dure pourtant longtemps si l’on fait attention à lui : tu peux bien voir des coupes, venues des grands-pères et des arrière-grands-pères, où boivent leurs petits-fils et leurs arrière-petits-fils. C’est au long de bien des années qu’une si grande fragilité a été protégée. Mais nous autres hommes, c’est au milieu de bien des périls quotidiens que nous cheminons fragiles. » (p. 58)

 この「グラスよりも壊れやすい人間」というイメージは、アウグスティヌスの他の説教にもさまざまなニュアンスのヴァリエーションを伴いながら繰り返し登場する。クレティアンにとってもお気に入りのイメージの一つのようである。
 このイメージ、ロジックとしては簡単に難癖をつけられるが、レトリックとしては印象深い。グラスはそれにふさわしい慎重な扱いをすれば何世代にもわたって受け継がれ得るものであり、祖父あるいは曽祖父がワインで唇を濡らしたグラスで孫あるいは曾孫が酒杯を傾けることもできる。壊れやすいグラスはかくしてそのままの姿で守られ、使われ続けることできる。それに対して、私たち人間は日常的に多くの危険に曝されて生きていかなくてはならない。いつ壊れてしまうかわからない。
 しかし、グラスも人間もいつ壊れてしまうかわからないという点では同じである。両者の違いは、それらから守らなくてはならない危険の多さとそれらへの対処の難しさ、人間の場合はその身を滅ぼす危険が己のうちにもあること、そして何よりも個々の人間の生の本来的有限性にある。そうであるからこそ、いつ壊れてしまうかわからないという人間の本性が今この時を無駄に過ごしてはならないという倫理的帰結をもたらし得る。
 この「今をおいて時はおそらくなし」という姿勢の真逆の姿勢を示すフランス語が procrastination という言葉である。「一日延ばし」「先延ばし」という意味である。ルネッサンス期にラテン語 procrastinatio から生まれた言葉で、初出は16世紀前半。17世紀から18世紀にかけてはほとんど使われず、19世紀になって教育の分野で、戒めるべきこととして使われるようになる。20世紀に入って「エレガントな」文章語となる。プルーストの『失われた時を求めて』に数例見出すことができる。

Les difficultés que ma santé, mon indécision, ma « procrastination », comme disait Saint-Loup, mettaient à réaliser n’importe quoi, m’avaient fait remettre de jour en jour, de mois en mois, d’année en année, l’éclaircissement de certains soupçons comme l’accomplissement de certains désirs.

À la recherche du temps perdu, « Bibliothèque de la Pléiade », tome IV, 1989, p, 95.

私の健康状態、私の優柔不断、サン・ルーが言っていた私の「先延ばし」(癖)が何を実現するのも困難にしていたが、その困難がある疑念の解明やある願望の実現を、日々、月々、年々と、私に先送りにさせていた。

 耳に痛く響くエレガントな言葉である。クレティアンのおかげで出逢うことができたこの言葉、多分一生忘れることはないだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


人間の壊れやすさ(fragilité)と傷つきやすさ(vulnérabilité)― その現象学的人間学的考察(3)Fragilité はホラー映画の襲撃者のように私たちにつきまとう?

2024-11-13 13:59:59 | 哲学

 今日は軽く流す。
 Jean-Louis Chrétien et la philosophie には « Sens et forme de la fragilité. Entretien avec Jean-Louis Chrétien » と題された談話(2018年に Esprit 誌に掲載)が収録されている。そのなかでクレティアンは、Michaël Fœssel と Camille Riquier の質問に答える形で、前年に刊行された Fragilité の内容について詳細に語っている。
 興味深い内容ではあるが、なんか反発を覚える箇所が多くて、読んでいて楽しくない。その反発の由来を一言で言えば、ここまでして fragilité を人間存在の根本様態に祭り上げる必然性がどこにあるのかという疑問である。彼が返す刀で他の類義語を撫で斬りにすればするほど、自身の論拠が掘り崩されるばかりで、結果として議論が破綻しているようにしか私には見えないのである。
 その反感をなんとか抑え込んで彼の言わんとするところを捉えようとはしている。一つのイメージは掴めた。外部からのあらゆる襲来に対して何重にも厳重に守られた城館のなかに身を潜めていたとしても、人間存在が fragile であることには何ら変わりはない、というイメージである。この点では、確かに vulnérable(=v) とは違う。自分がそれに対して v であるものから自分を守る、遠ざけることはできるからである。しかし、たとえそうだとしても、何かに対して v であるという性質に変わりはない。
 面白いと思った喩えを一つ紹介する。F から逃れようよしても無駄であるということを説明するくだりでホラー映画が喩えとして使われている(p. 147)。自分に襲いかかろうとするものから必死になって逃れようとしてある部屋に逃げ込み鍵を掛けたところ、その部屋のなかに当の襲撃者がいることに気づくのと同じように、F はどこまでも私たちにつきまとうというのである。
 これは確かに怖いかも。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


人間の壊れやすさ(fragilité)と傷つきやすさ(vulnérabilité)― その現象学的人間学的考察(2)F の哲学と V の倫理を相補的に読む試み

2024-11-12 08:26:43 | 哲学

 諸般の事情で毎日連載というわけにはいかないが、これから「壊れやすさ fragilité」と「傷つきやすさ vulnérabilité」についてかなり長期にわたって断続的に考えていくにあたって、いくつか約束事を決め、若干の予備的考察を示しておきたい。
まず、同じ言葉を繰り返す煩瑣を避けるために、簡略な記号を用いることにしたい。
「壊れやすさ」は F(=fragilité) あるいは f(=fragile)、「傷つきやすさ」は V(=vulnérabilité)あるいは v(=vulnérable) とする。大文字は一般概念・集合全体・範疇等を指し、小文字は特定の分野・領域あるいは個々の事例等を指すときに使う。
 昨日の記事のなかで立てた仮説を記号化すると、F∪V が問題の全領域(和集合)、F∩Vが両者の共通集合(積集合)、両者の関係は F≠V、F⊄V、F⊅V となる。
 次に、手元の数種の辞書に採用されていた両語の用例から帰納的に導かれる両語間の弁別的差異を示しておく。
 どちらもそれ自体が積極的価値を意味することはない。しかし、f は他の積極的価値の可能性の条件となりうる。例えば、繊細な硝子細工の工芸品としての美しさは、壊れやすさと不可分である。硝子のかわりにプラスチックを使えば、作品は壊れにくくなるが、工芸品としての美的価値は明らかに劣る(したがって商品価値も著しく低下する)。ところが、v であることがなにものかの積極的価値の可能性の条件になることはない。ある積極的価値と v とが共可能であることはあっても、後者は前者の必要条件ではない。例えば、コンピュータは水に v であるが、そのこと自体がコンピュータの高機能性を可能にしているわけではない。言い換えれば、水にも v ではないコンピュータがあればそれに越したことはない。
 F はそのものそれ自体の性質を示すことが多いのに対して、V は他との関係性として述べられることが多い。例えば、ワイングラスが f であるというときは、グラスそれ自体が f だということが主たる問題なのであり、そのグラスがどのような衝撃に弱いか、どのような条件下でそうかということは副次的な問題に過ぎない。それに対して、戦争状態にある国の特定の地域が v であるということは、その地域が敵国からの攻撃に特に曝されやすいということと、同国の他の地域よりもそうだということとを同時に意味している。
 F と V との以上のような用例上の弁別的差異が、ジャン=ルイ・クレティアンの F の哲学とコリーヌ・ペリュションの V の倫理との間に見られる根本問題の設定の仕方の違いを明確化する一つの指標になると思われる。
 前者において、F は、個としての人間の存在条件として、多様な形象および表象を伴いつつ、西洋精神史において古代から現代に至るまで通底する本質的要素として考察されているのに対して、後者において、V は、多様で可変的、多層性を孕み、個々の閉鎖系を超え出る開放性を有した関係の束の結節点である人間(および他の生物)の存在様態として、個の実存の次元を超え、政治的・制度的な次元、生態系の次元にまで拡張的に適用される。
 F の哲学と V の倫理を相互に排他的な立場としてどちらか一方にのみ与するのではなく、両者を互いに相補的な哲学的考察として読んでいきたいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


人間の壊れやすさ(fragilité)と傷つきやすさ(vulnérabilité)― その現象学的人間学的考察(1)

2024-11-11 12:22:17 | 哲学

 日本語であれフランス語であれ、一般に意味領域が近接あるいは重なり合う類義語、または相互に交換可能な同義語として使われる語の間の区別と関係に注意深くあることは、それまではよく見えていなかった生活世界の分節構造を明確化することを可能にしてくれることがある。あるいは、体感としてなんとなく感じられていたに過ぎなかった内面世界の「地形」や「地層」やそれらの「変動」についてより明確な表現を与えることができるようになることがある。
 類義語間の差異を明確にするための手段として、語源への遡行、通時的変化の観察、統辞論的分析、適応可能対象の相違の例示、文法的機能の共時的差異の記述などが考えられる。これらの手段はそれぞれに有効性を有している。
 他方、類義語の間の語源的・通時的・共時的・意味論的・機能的差異に過度に固執することは、時として偽問題を発生させ、不毛な議論に時間を浪費するという危険も孕んでいる。この危険は哲学においてもっとも大きように私には思われる。
 類義語にまつわる上記のような問題はかねてより繰り返し考えてきたことであるが、ここ数日ジャン=ルイ・クレティアンの著作と昨日言及した記念論文集の数カ所を何度も読み返しながら、あらためて考えさせられている。
 というのも、2017年に Les Éditions de Minuit から刊行された Fragilité というタイトルの著作の冒頭で、クレティアンは fragilité と vulnérabilité とを次のように区別しようとしているのであるが(p. 7)、私にはそこにクレティアンらしからぬ「無理強い」を感じてしまったからである。

On peut se briser de soi-même, et non par un choc ou une agression venant d’ailleurs. C’est une différence notable au regard de la vulnérabilité, souvent confondue avec la fragilité, et aujourd’hui très à la mode, car est vulnérable ce qui peut être blessé, ce qui suppose une atteinte venant de l’extérieur. Seul le vivant, au sens le plus large, puisqu’on peut le dire d’un arbre, est au demeurant susceptible d’être blessé, alors que « fragile » peut qualifier des êtres inanimés. Le verre sera notoirement dans le langage et la tradition le paradigme de la fragilité.

 しかし、外部からの衝撃なしに「自壊」するグラスなどない。外的要因の有無によって fragilité と vulnérabilité とを区別することはできない。クレティアン自身、上掲引用の直後の段落(p. 7-8)でこう述べている。

Est commun toutefois à ces deux termes de « fragile » et de « vulnérable » qu’ils désignent une possibilité inscrite dans la constitution propre de l’être en question, et qui ne cesse de lui appartenir, quand bien même elle ne serait pas passée à l’acte ou mettrait très longtemps à le faire.

 どちらの語も、それが適用される対象にとっての内在的な可能性(‐やすさ)を意味している。この可能性は、そのもの(人間およびその他の生物、制度、機械類、状況等も含まれる)にとって恒常的かつ不変的な性質のこともあれば、なんらかの内的あるいは外的変化が要因となって生じる一時的状態のこともある。例えば、国家間の緊張が高まり、それまでの均衡が危うくなったとき、 équilibre fragile (あるいは fragilisée)という表現がよく使われる。あるいは、何らかの内的あるいは外的要因によって免疫力が低下して、あるウイルスの侵入を防ぐことができなくなった生体について devenir vulnérable と言う。
 しかし、両語が適用される対象を広範な多領域に亘って横断的に考察することがここでの目的ではない。考察対象は人間存在に限定される。生物学の対象としてのヒトも生理学の対象としての免疫システムも考察から除外される。もっぱら人間存在の恒常的条件(condition permanente)としての「壊れやすさ fragilité」と「傷つきやすさ vulnérabilité」とに考察対象を限定する。
 考察の出発点として、この二つの存在条件は、互いに排他的でもなく、どちらかが他方に内包されるのでもなく、還元されるのでもなく、いずれも人間存在にとって本来的(authentiques)であり、他のなにものかに還元不可能な基礎的条件である、という仮説を立てる。
 この現象学人間学的考察を進めていくにあたって、私の導き手であり、かつ、身の程知らずを承知で言えば、対話の相手でもあるのは、ジャン=ルイ・クレティアン(1952-2019)とコリーヌ・ペリュション(1967-)である。