こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2011年6月1日 水曜日 クリストファー・クロス「セイリング」'79

2011-06-01 19:06:22 | 音楽帳


クリストファー・クロスのデビューシングル「風立ちぬ」に続く2枚目の「セイリング」。

ウエスト・コースト・サウンドがイーグルスの事実上解散に向かう中、自分はその類の音楽に夢中だった。
中学生1年生だった。
そんな中、クリストファー・クロスの登場にワクワクした。
彼の天性のような美しい声とメロディアスなサウンドに、即コロッと逝った。

当時、東京12チャンネルで夕方から洋楽等を紹介する番組があった。
間に挟まれたパイオニアのCMに高中正義が出て、彼がナマで弾く「ブルー・ラグーン」のカッコヨサも衝撃的だった。
オールバックでヒゲをはやし、とんがった眼をした高中正義の風体の恐さと、彼の弾く誰にも真似出来ないようなテクニックとメロディにイチコロだった。



その番組で、クリストファー・クロスのライヴを見て、なおさら惹きつけられた。

***

ロッド・スチュアートにも「セイリング」という曲があるが、まるで演歌か歌謡曲のようなオナミダ頂戴のようで好きになれなかった。

それとは比較にならない美しい曲、クリストファー・クロスの「セイリング」。

穏やかで静かな流れ、夜を進む曳航の風の匂いと空気に応じる皮膚感覚、そんなものがこの曲には包含されている。


【ジャケットの絵も素晴らしく、曲と見事なまでにマッチングしている。】

この手の洋楽に夢中だった後、テクノの革命の嵐に自分の関心は移って行ってしまったが、最近数年、この「セイリング」はやはり素晴らしい名曲だなあ、と思って、夏が近づく夜には好んで聴く。

2011年の今でも、クリストファー・クロスの「セイリング」は、古さを感じさせない名曲である。



■クリストファー・クロス 「セイリング」■

楽園までは遠くないはずだよ 少なくとも僕にとってはね
風がちゃんと吹いてくれれば 海を渡ってゆける
心を休めることができる 奇跡を起こす帆掛け船だよ
様子を見てみようよ 僕を信じて

永遠の島へは遠くないんだよ 嘘をつく理由なんてないよ
風がちゃんと吹いてくれれば 喜びが見つかるよ
もう一度無邪気になれる 奇跡を起こす帆掛け船だよ
もっと様子を見ていようよ 僕を信じて

海を渡ってゆく 僕を運んでいって
まだ聞いたことのないところへ
風と夢が僕を運んでくれる もうすぐ自由になれるんだ

夢見ること それが最高だよ
海を渡っていると 全ては幻想の中へ
全ての言葉はひとつになってゆく 信じてくれないのかな

もとの自分に戻ろうよ 僕はそうするつもりだよ
ちゃんと風が吹いてくれれば 海を渡ってゆける
心を休ませることができる 奇跡を起こす帆掛け船だから
このまま様子を見てみようよ 僕を信じて

(FC2ブログ http://hitheband.blog118.fc2.com より引用)
コメント
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2011年5月31日 火曜日 深夜 夏目漱石の写経

2011-06-01 00:01:18 | 雑記帳
くもおさんへ
どうも安らいで、今、細野さんのことが話せない。
仕事モードの平日であるからでもある。
日曜日に見た番組も作用している。
なぜか今考えてはいけない感じが自分を包んでいる。

森下礼さんへ
何かとつぶやくものですな。
「タバコを吸うと、600度くらいの温度になり、ビタミンB3であるニコチン酸アミド(ナイアシン)が生成されます。
このビタミンには放射性物質も体外に出す作用があるとのことです。」
まさに目からウロコ。
政府や公が何もプラスのものを我にもたらすことは一生無い確信がある中、自らのふるまいだけが自分の歩みを決定する。
とても参考になる話、有難い。

さくりんさんへ
「原発で暴力団を雇う」は、ネットではかなり目にする。
労働にあぶれた山谷や釜ケ崎から現地に輸送し、見張り監禁している、なる噂。
真偽の程は判りませんが。
こちらの大ボスも、今は「おフランス」でやんす。

***

22:06電車に乗り、帰る。
今夜も、飛び込み自殺があり、帰宅までに1時間以上を要してしまう。

月曜・火曜と不思議と腹が減る。
昼は、今迄お弁当+お味噌汁が、味噌汁からカップ麺に変化。
夜も帰り道には腹ぺこになり、帰ると今迄よりかなり食べる。

しかし、一方では腰・背中・肩・首周りのコリが尋常では無く、痛む。
今日も四六時中、自己マッサージとストレッチしていた。
していないと辛さに勝てないのだ。
妙なことである。

***



ここ数日は黒のスーツの内ポケットに漱石の『硝子戸の中』を忍ばせている。
厚さ1cmに満たない大正四年の作品。
新潮文庫、120円の記載。
かなり昔に読んだらしい。

目の止まった箇所をケータイ写経す。



『…客の帰ったあとで私はまた考えた。

継続中のものは恐らく私の病気ばかりではないだろう。

私の説明を聞いて、笑談だと思って笑う人、わからないで黙っている人、同情の念に駆られて気の毒らしい顔をする人、
すべてこれらの人の心の奥には、私の知らない、又自分たちさえ気の付かない、継続中のものがいくらでも潜んでいるのではなかろうか。

もし彼らの胸に響くような大きな音で、それが一度に破裂したら、彼らは果たしてどう思うだろう。

彼らの記憶はその時もはや彼らに向かって何物をも語らないだろう。

過去の自覚はとくに消えてしまっているだろう。

今と昔と又その昔の間に何等の因果を認めることの出来ない彼らは、そういう結果に陥った時、何と自分を解釈してみる気だろう。

所詮我々は自分で夢の間に製造した爆裂弾を、思い思いに抱きながら、一人残らず、死という遠い所へ、談笑しつつ歩いて行くのではなかろうか。

ただどんなものを抱いているのか、ひとも知らず自分も知らないので、しあわせなんだろう。

私は私の病気が継続であるという事に気が付いた時、欧州の戦争も恐らくいつの世からかの継続だろうと考えた。

けれども、それが何処からどう始まって、どう曲折して行くかの問題になると全く無知識なので、継続という言葉を解しない一般の人を、私はかえって羨ましく思っている。』

私は、このくだりに何か、天災であった震災と継続する放射能が、あたかも透かし模様のように見える。
コメント (4)
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